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ーーーー誰かのためにちょっとでも明日が楽しみに、未来にワクワクできたら素晴らしいーーーー

ゲストプロフィール

大山友理 (オオヤマユリ)
2000年、宮城県生まれ。5歳までは神奈川県と宮城での二拠点生活を送る。地元神奈川県内の小学校を卒業後、玉川聖学院中等部・高等部に進学。高校3年生の春に、学生団体Women’s Innovationを立ち上げる。大学は津田塾大学総合政策学部に進学し、学生団体の活動や長期インターンに力を入れる。今年4月に在学中のインターン先の一つである「オイシックス・ラ・大地(株)」に入社し、現在に至る。

ーー小学校時代までを教えてください。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

幼少期、祖母のブティック前にて。

2000年に宮城県で生まれました。弟と妹が1人ずついます。5歳頃までは祖母の住む宮城と神奈川県内にある実家の二拠点生活をしていました。祖母がブティックとレストランを経営しており、宮城では日ごろからお客さんと接する機会は多く、幼少期は比較的人見知りしない子だったと思います。両親は放任主義とはいかないまでも、自分の興味のあることは何でもやらせてくれました。これは特に進路を考えるときになって実感しました。両親から理想像や偏見を押し付けられたりなどはありませんでしたね。

小学校は地元の公立小学校に進学しました。習い事は水泳、生け花、ピアノ、書道などいろいろ経験しましたが、どれも能動的にやっている感じではありませんでしたね。ただ、4年生で音楽クラブに所属し、卒業するまでアルトホルンという楽器を3年間続けました。また、小学校5年生の時には弟の影響を受けてサッカーW杯南アフリカ大会に夢中になり、以後、本田圭佑選手を熱烈に推すようになり、サッカーに強い興味を持ち始めました。後から聞いたのですが、両親は趣味や熱中することのない私を少し心配しており、サッカーや本田選手に夢中になる私を見て安心したそうです。

 

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

小学生の時、七夕まつりにて

それでも私は自分から何かを主張するということはほとんどなく、周りに合わせるタイプであり、なんとなく環境を変えたいなと思ってはいました。そこで中学受験をすることを決意しました。共学にはバチバチした恋愛があると勝手に思っており(笑)、女子校を志望しました。小3の3月くらいから塾に通い始め、玉川聖学院というキリスト教の中高一貫校に進学しました。

ーー中学時代について教えてください。

中学校に入学すると、「温かい人が多いな」という印象を持ちました。「人を思いやる」という精神が根付いており、中高でなじめないと感じることはなかったです。ただ、入学してから1週間は思春期だったこともあるのか誰とも話すことができず、泣きながら帰ったのは覚えています。幼少期は人見知りせずに、コミュニケーションがとれる性格でしたが、小学校高学年くらいから「自分って何だろう?」とよく考えるようになり、自分に自信を持てなくなっていたんです。

そんな自分を変えるべく、私はバドミントン部に入部しました。小学生の時はかなりの泣き虫であり、「強くなりたい=運動部!」という単純な考えで、中でもノリがよさそうだったバドミントン部に入りました。しかし入部して1週間できついと感じ、半年後には退部し、自分の取柄について模索する日々が始まりました。初めて周りに流されない選択をしてバド部に入ったのに、辞めてしまったことは自分でもショックでしたね。ただ、次の部活は周りと少し違ったことができ、将来のためになるものにしよう、ということで茶道部と書道部に入りました。学校外で着付け教室に通い始めました。このころから自分で自分の選択を考えるというのができるようになったのかもしれません。

しかし、中学3年の時に父に大きな腫瘍が見つかり、もうこの先長くはないという診断を受けました。色々な病院を奔走する日々でした。そこで初めて、仕事で忙しい父との思い出があまりないということに気づいたんです。それからは一回きりの人生を悔いなく生きたいとより一層思うようになり、興味のあるものには向き合える時に向き合うようにしました。自分が健康で長く生きられる保証はないですしね。

自分の環境が大きく変わった時でしたが、周りの友人の優しさには助けられましたね。温かい人が多く、心の支えとなるような場所が多く用意されていたのはとても助かりました。

ーー高校時代について教えてください3年生の時に学生団体を立ち上げたのですよね?

高校に進学する際、私の学校では修了論文を書くのですが、私は「サッカー日本代表はなぜここまで強くなれたのか」というテーマで論文を書きました。自分の好きなことじゃないと続かないので、小5の時のサッカーW杯以来熱中していたサッカー日本代表をテーマに書き上げました。

中学の修了論文を書いている中で、自分の好きを大事にし、そしてそれを生かせる場所があるとレベルアップできると実感しました。ですのでそれを生かせる場所を高校生活で見つけていきたいとは思っていましたが、当初はまだ特別外部で何か活動していたわけではなく、中学時代と同様にのんびり過ごしていました。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

学生団体1年目のイベント時の写真です!

そんな中、高3の春に学生団体Women’s Innovationを立ちあげました。きっかけは上述の父の病気と母の料理教室です。母は料理教室を開いていたのですが、それは趣味の延長といった形で肩書はあくまでも主婦でした。父がもう何年も生きられないという中で、再就職等の面で主婦の方は経済的な自立が難しい現状に置かれていると実感しました。また、母の生き方にも憧れていたものの、幼いころから私にとってロールモデルだった祖母のイキイキと働く姿にも惹かれていて。もし働くのであれば年が離れている祖母だけでなく、自分と同年代の人から様々なキャリアのイメージをつかみたいと考え、団体の立ち上げに至りました。

別の理由としては自分自身の将来が定まっていなかったというものがあります。中学時代は頑張っていた勉強も、高校に入るとその目的を見失ってしまいました。当時、興味を持っていたJリーグに就職するために、新潟にあるサッカーの専門学校に行くことも本気で考えたりもしました。ただ、実際にAOでの大学進学を考え、自分の原点を振り返ると、Women’s Innovationを立ち上げ、生き方を考えるのは自分の現状にフィットするなと感じたんです。

活動内容は、「子育てと仕事の両立」をテーマに、働きたい女性が好きなように働けるには、ということを人生の先輩に問いかけ、自分たちも考えるというものです。イベントを開催して『AERA』の編集長の浜田敬子さんにご登壇いただいたり、働く女性を支援する企業の方にインタビューを行ったりしました。他にも、未来の世代が自分らしく生きていけるよう尽力する方たちに出会い、この活動を一生懸命にやるという覚悟、半端で終わらせては失礼だという気持ちが芽生えました。

ーー進路はどのようにして決めたのでしょうか。

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大学は津田塾大学総合政策学部を志望しました。高2の夏にオープンキャンパスに行ったのですが、なぜかはわかりませんが建物を見たときに震えちゃって。このような感覚になったのは初めてでしたし、この衝撃を無視して他の大学に行くということは考えられないなと思いました。直感で決めましたね。ただ、後になって志望理由を言語化していくと、「女性は社会を推進できるという」という言葉を掲げる津田塾大学は、自分の能力や可能性が広げられる場所なのかもしれないとも思うようになりました。総合政策学部にしたのは、突き詰めたい分野がわからなかったからです。当時は憧れの本田圭佑選手と働きたいという希望もあり、それに見合う能力をつけるには、様々な分野を学んでおく必要があると考えたんです。また、学部は私の学年が2期生と新しく、先生と学生が密接に連携し、新しいモノを作り上げていくといった雰囲気にも魅力を感じ、志望しました。

ーー大学時代は何をなさっていたのでしょうか。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

学生団体2年目のミーティング時の写真です!

引き続き、Women’s Innovationの活動を続けましたが、「子育てと仕事の両立」に当事者感がありませんでした。そこで、高校卒業後の進路選択について聞く方がモデルケースの参考になるのではと考え、その方面にテーマを大きく変えました。また大学2年の秋頃から、若い女性から「不安を言語化する機会がない」「近しい悩みを持っている先輩に相談したい」という要望が増えたので、ラジオ型の配信を通じて悩みを聞けるようにしました。

個人的には、大学時代にインターンにも力を入れました。Business Insider Japanという、アメリカ発の経済系メディアで働きました。高校時代に団体のイベントで登壇していただいた浜田さんからのお誘いで、社会の最前線で働いている人が与えてくれた機会を逃したくないと思い、大学入学前から始めました。また、より読者の方と触れ合いたいという思い、社会人間もない頃に自らゼロからメディアを立ち上げた人のもとで働きたい、という思いから、「NEXTWEEKEND」でのインターンも大学2年の時に始めました。

ーーキャリアはどのようにして決めたのでしょうか。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

イベントにて、浜田敬子さんと。

当初はメディア系を志望していました。しかし大学3年時にいよいよ父の具合が良くない、という状況になってしまい、転勤が多い企業、リモートワークがしにくい企業は難しくなったんです。そして私は何をやりたいかがわからなくなり、「みんなが良いと言っているから」という理由で一時的に有名企業を志望するようになりました。ただ、そんな自分にモヤモヤするようになり、就職活動はせずとことん自己内省をするようにしました。その結果、以前「カンブリア宮殿」でも特集され、個人的にも良い印象を持っていた「オイシックス・ラ・大地」という、食品のサブスクリプションサービスを提供する会社を希望するようになりました。

当時のオイシックス・ラ・大地は新卒採用をしておらず、まずはインターンとして参画することになりました。インターン生ながら裁量権を与えてもらい、ヴィーガンのミールキットブランドの商品企画を担当し、その後無事内定をいただくことができました。インターン生のときから社内は自由に意見を言い合えるような雰囲気で、とても居心地が良い会社ですね。

ーー一味違うキャリア設計に、周りの人はどのような反応を示したのでしょうか。

親しい人は、「新卒採用をしていない会社の選考を受けるのはチャレンジングな選択ではあるけれど、そこまで思い入れがあるところが見つかってよかったね」という反応をしてくれました。私は昔から気持ちがのらないとなかなか実行できない性格だったので、自分らしさが出た進路選択、という印象が身近な人にはあるようですね。また、母が料理教室をしていたこともあり「また食に戻ったんだね!」と言ってくれる人もいました。

ーー今後は何をしていくのでしょうか。そして、どこで活動していくのでしょうか。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

学生団体の広島でのキックオフイベントにて。

私は、目標を持つとそこから外れたときに苦しくなってしまうので、明確には定めていません。その場の環境を楽しんでいきたいですね。ただ、現在も続けている着付けについて何かしたいという思いはあります。また今の会社も長く続けていきたいと思っています。

Women’s Innovationは学生が少なくなってきているので、彼らをもっと巻き込んでいきたいですし、地方での活動をもっとしていきたいです。現在も広島の女子大とコラボ企画をしているのですが、地方と首都圏の情報格差は強く感じます。高校生や大学生にさまざまなモデルケースを知ってもらいたいと思います。

ーー将来の夢はありますか?また、どんな人生にしたいですか。

大学に入るまでは「本田圭佑選手と働く」という夢を持っていましたが、今では他にもやりたいことが出てきました。ただこれといった明確なものはありません。困っている人、もやもやして悩んでいる人に寄り添って活動していきたいですね。オイシックス・ラ・大地での仕事を通じて、社会の課題解決に携われたらなと思います。

ーーこれまでの人生でやってよかったこと、やっておけばよかったことはありますか。

自分の好きなこと、興味があることをとことん調べることですね。何でもよいので、まずは調べてみることが大事です。すると自分の知ったことや興味のあることを他の人に話したくなったりするんです。そこで、自分が中心となって活動を立ち上げたり、似たような思いを持つ人について行ったりすればよいのだと思います。

一方で、もう少し勉強はしておくべきでしたね。英語や資格など、持っていないと選択肢が狭められてしまうものはもっと取り組んでおけばよかったなとは思いますね。

ーー大山さんにとって大学とはなんでしょうか。

それぞれの大学によって意味づけは違いますが、色々な学びのなかで自分の興味関心についてとことん調べられる場所なのではないでしょうか。自分の興味、関心、好きに気づかせてくれますし、大学生の間はその好きに流されてよいと思います。

ーー最後に、大山さんにとって人生とは。

難しい質問ですね(笑)。ただ、誰かを幸せにする人生って素晴らしいと思いますね。年上の社員さんが以前、「若いときは自分のために頑張っていたけれど、今はもう誰かのためにしか頑張れない」とおっしゃっていたことが印象に残っています。誰かのためにちょっとでも明日が楽しみに、そして未来にワクワクできたら素晴らしいなと思います。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

オンラインでインタビューを受けていただきました!

みなさんはこの記事を読んでどう感じましたか?

大山さんは、これまでの人生の様々な場面で自分とじっくり向き合い、そして自分の「好き」を大切にされてきました。そして人生というものは、「好き」な人のために生きていくことであるのかもしれない、インタビューを通して私はそう考えました。