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ーーーー自分の可能性を最大限発揮して、自分を追求して死にたいんですーーーー

ゲストプロフィール
榎本理恵(えのもとりえ)
大阪府富田林出身。現在は富山大学人文学科二年生。ラボレ株式会社のインターンとして、また今年4月からは学生管理人として、泊まれる図書館寄処というゲストハウスの運営に携わる。アパレルで接客業のアルバイトを行なっている。
ーー中学時代までを教えてください。

三人兄弟の末っ子として生まれたのですが、お姉ちゃんは6つ上で、姉は高校卒業と同時に長野県へ引っ越したので、一緒に過ごしたのは小学校六年生まででした。そして2つ上には兄がいます。小学生時代は、とにかく兄と姉に負けたくないという気持ちが強かったです。何をするにしても兄と姉の方ができてしまうから悔しくて、そこで負けず嫌いが養われたと思います(笑)

それから、とにかく好奇心旺盛で常にいろいろなことをしていました。小学校三年生でサッカーに興味を持ってから、どこへ行くにもサッカーボールを持っていましたね。リフティングは1000回を超えたところで数えるのをやめてしまったのですが(笑)また、環境問題にも興味を持っていて、家でコンセントを抜いていたり、家族からは環境大臣と呼ばれていました(笑)きっと、社会をこうしたい!という思いが強かったんだと思います。幼い頃の夢はなでしこジャパンに入って、引退して、総理大臣になることだったんです(笑)常に活発で、動いて動いて、怪我して、動いてという感じの子供時代です。小学校六年生で本格的にクラブチームに加入しサッカーを習い始めましたが、チームプレイで怒られるのが怖すぎて、中学校からは陸上部に入ることにしました。
ーー中学時代について教えてください。

中学校でも夢は大きく持つタイプでした。陸上部も緩い部活だったのに、全国大会に行く気でやっていましたね。陸上は練習量というよりも、元の実力で決まる部分があり、私は筋肉のつき方や骨格が陸上に向いていなかったのですが、緩い雰囲気の中、上手くなろうと練習ばかりしていました。
そのほか、もともと人生の本質だったり、人生哲学を考えることが好きなのですが、中学生になり人間に関して熟考する習慣がつきました。人間関係に関しても、その人との出会いはどのような意味があるのかなど、たくさん考えた時期でした。
中学で学んだこととしては、全て捉え方次第ということですかね。例えば、苦手な子がいたとしても、その子に関して愚痴を言うのではなく、この子は何を教えようとしてくれてるんやろうという視点で考え始めました。現在の私も、たまに落ち込むことはあるのですが、心のどこかで全ては何かのために起こっていると信じているからこそ、少し感情に浸りつつ、また浮上していくことができています。へこむのですが、若干楽しみつつありますね、なので病まないです(笑)
ーー高校時代について教えてください。

バブリーダンスで有名になった登美丘高校に進学しました。中学時代は陸上に打ち込んだものの、力が伸びたのは一年生までだったため、高校では陸上部に入る気はありませんでした。ですが、入学式の時よく目が合って仲良くなりたいなと思っていた子がいるんですけど、私が陸上部の体験入部に遊び感覚で参加した時、その子もいて、とても意気投合しました。そして気付いたら入部してました (笑) 顧問の先生は、競技に関する論文を読み、常に頭を使って練習することを大切にする方でした。中学の陸上ではがむしゃらに練習していましたが、高校ではメニューの構成や筋肉の使い方まで考えて練習しましたね。そこで、陸上は奥深いスポーツなんだと学びました。その先生のおかげで、私たちの代で陸上部が盛り上がり始めました。練習前にゴミ拾いをしたりもしていました。結局、私は副キャプテンとして青春を陸上に捧げることになりましたね(笑)
ーー大学受験について教えてください。

私が部活を引退したのは高校三年生の7月でした。ですが、それまでずっと陸上に打ち込んでいて勉強をしていなかったんです。さらに、私の高校は女子の大学進学率が低く、みんな専門大学などに進学していました。数少ない中大学を受験しようと思った私も、当初は大阪の私立に行こうと安易に思っていました。ですが、お父さんに3科目で受けられる国公立もあるよと声をかけられ、日本史、英語、国語で受けてみようかなと思いました。地元を離れることに抵抗がなかったため、8月か9月には山梨にある県立大学に進学しようと決めました。個別塾に通って勉強し始めたものの、めちゃくちゃ頑張っていたわけではなく、前期で落ちて、後期で宮崎の大学を受けました。当時は偏差値で大学を決めていたので、本当にどこでもよかったんです。しかし、合格待ちの時、自分はこの大学受験で何も得ていないなと気づいたんです。そんななぁなぁで良いのかと。そこで、お母さんに泣きながら、合格通知が来たとしても一年間浪人したいですと頼みました。お父さんもお母さんも親身に話を聞いてくれ、やりたいことは応援すると言ってくれました。
今思えば、お父さんやお母さんから価値観を押し付けられたことはなかったと思います。お姉ちゃんは林業をしていて、お兄ちゃんは鍼灸をしていて、大学受験をしているのは私だけなんです。お父さんとお母さんは、様々なことに関してリスクがあることを説明した上で、最終的な決断は私に委ねてくれました。そして最後の受け皿として私たちがいるよというスタンスで受け入れてくれました。本当にありがたい。そんな両親に後押しされ、私の浪人生活が決まりました。
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ーー浪人生活について教えてください。
浪人生活が始まり、改めて受験先を考えた時に、高校の時の語学研修が楽しかったことから留学がしやすく、この低いレベルから死ぬ気で勉強して行けるか行けないかのレベルの大学が面白そうだと思いました。そこで金沢大学が一番ぴったりの大学でした。
塾にも通い始め、そこでは今の私のパートナーと呼べる子と出会います。友達というよりかは、今後一緒に仕事をするだろうと思うくらいのパートナーです。その子は大阪の進学校から来ていて、彼女からは勉強とは何か、勉強の努力とはどういうものか、を教えてもらいました。その塾では、毎日朝7時に出て夜10時に帰ってくるような生活を送っていました。今振り返ると人生で一番楽しい時期だったかもしれません。勉強しかしなくていい、目標があってそこに向かって努力だけしていればいいという日々でした。なんて幸せな日々なんだろうと思っていました。
当初は金沢大学一択だったのですが、そろそろ第二希望も決めなければならなくなり、富山大学を選択しました。ただ、私は大学受験という過程に重きを置いていたので、正直大学はどこでも楽しめる自信があり、そこまで重要じゃなかったんです。なので直感的に富山を選びました。
センター試験では数学の形式が変わったことから少し足を引っ張られ、最後は確実に行けるところにしようと思い前期で富山大学を受験しました。
ーー大学時代について教えてください。
ずっと大阪に住んでいましたが、富山大学に進学し富山に引っ越すのは全く寂しくなかったです(笑)その土地のことについて何も知らない、誰も知らないという環境に飛び込むのが好きで、高校も知り合いが誰一人いない学校を選びました。「知らない」ということや「変化」が好きなので、大学選びの時に、そこも重視しました。なので、大学卒業後も富山にいることはないと思います。それは好奇心というよりかは単純にワクワクするという私の直感ですね。
大学一年生からコロナでオンライン授業だったのですが、自分はコロナだったからこそ得られたものがあったと思います。あまり声を大にして言えないのですが。当時はとにかくいろんなオンラインイベントに参加したり、読書をたくさんして読書のアカウントをTwitterで作ってみたりしました。あの時間とあの状況は望んで手に入るものではないので、あの期間にたくさん考えて、いろんな人とオンラインで出会い、自分の価値観を広げることができて良かったなと思います。

コロナが明け始めた一年生の9月から、子供と遊ぶボランティアサークルとキャリアサポーターという大学の活動を始めました。また、浪人時代のパートナーと再会を果たし、彼女がtabippoの世界一周コンテストDREAMに出場するため、そのサポートに回りました。その子が優勝できるように、プレゼン動画のアドバイスをしたり、オンライン投票の戦略を考えたりというオンライン会議を1月から始め、彼女は無事コンテストに優勝しました。
その後二年生になってから泊まれる図書館寄処に出会いました。キャリアサポーターで感じていた個人が輝けないというモヤモヤが解消された場所だったので、寄処一本に集中しようと活動し始めました。寄処ではそれぞれがやりたいことをやって、受け入れあうという風潮があるんです。現在は、ゲストハウス運営を通じて、学生が様々な旅人と出会い、個人の「好き」や価値観を広げたりする活動を行っています。ゲストハウスでは、たくさんの人と出会えるので楽しいですよ!例えば、日本一周でも、リアカーバーを開きながらしている人もいれば、キックボードで、自転車で、している人もいるんです。
ーー富山県に住んでみて感じたことを教えてください。
富山の良いところは、やっぱり狭いからこそ声を上げたら誰かが拾ってくれる。学生でも、こんなに大人と関われるんやとびっくりします。学生でも挑戦しやすい場所です。その一方で、やはり富山だけでは限界があって、外にはより広い世界があるんだなと感じることもあります。なので外部との関わりは大切にするようにしています。世界が広いか狭いかは、優劣あるものではないのですが、自分はもっと広い世界を見てみたいなと思います。
ーー今後の進路について教えてください。
直近で言うと、世界一周コンテストに優勝したパートナーが今年の4月から来年の3月まで世界を旅するのですが、私も夏休みの間に合流します。あの子はあの感受性で、世界を見てどうなって帰ってくるんだろうと思っています。
それから、より大きな視点から捉えると、私は自分を追求して死にたいんです。この感覚を言葉で伝えるのは難しいんですけど(笑)この世界はみんなそれぞれ異なる経験や価値観を持ち、誰一人同じではない場所です。そこで自分の可能性を最大限発揮して、変わらない自分も変わっていく自分も追求して、輝ける道を探して努力したいと思っています。
私は目に見えないものを大切にしたいタイプなので、2023年は変化の年だと思っているんです。また、LIFESHIFTという本も話題になっていますが、これからの未来はすごい未来が来るんやなーと思うんですよね。仕事だって、ずっと変化していくし、大人はずっと学び続ける必要がある。今はなるように動いて、出会った仕事に柔軟に対応できるような土台を作っている期間です。自分のことを知っておけば、これだというものを見つけた時に活きるという、根拠のない自信があります。
また、パートナーのサポートに関しても考えていることがあります。この子と一緒にいればすごい景色が見られるんだろうという自信はあるのですが、もし彼女が倒れたら自分も倒れてしまいそうで、自分も彼女もそれぞれリソースを持っていて、活躍するという関係が良いのかもしれないと考え始めています。
ーーやってよかったことはありますか?
読書、部活、たくさんの大人と話すことですね。
ーーやっておけばよかったことはありますか?
何かあるかな、本当は後悔してると言いたくないけれど高校の時にもっと勉強すれば良かったなと思います。それは偏差値の高い大学に行きたいとかではなく、やはり自分がどれだけ勉強するかで将来自分が関わる人たちが変わると思っています。
ーー読者に向けてアドバイスをお願いします。
うまくまとめられないのですが、まず自分には価値があると信じて欲しいです。あなたのその感覚に周りの人の評価基準を持ち込まないで、自信に根拠なんて持たずに、自分自身の感覚を信じて欲しい。いろんな情報があって、いろんな人が権力を持って発信しているけれど、自分の目を養って考える力をつけて、自分の人生で培ってきた感覚を信じて欲しいと思うんです。それを発信していれば、共感する人が集まってくるし、なんなら時代があなたに追いついてくるかもしれない。だから、自分のことは大切にして欲しいと思います。
ーーあなたにとって大学とは?
完全モラトリアムと言われている通り、リスクを取らずたくさんの時間を得られる場所だと思います。もちろん大学に行かず、4年間フリーターをしてもいいわけですが、日本の仕組み上、どうしても大卒資格がなければ難しいこともたくさんあります。なので、安全な環境にいながら、自分のことを見つめ直し、世界と関わっていく、そんな場です。
ーーあなたにとって人生とは?
その質問を以前考えていたのですが、生きるとは、できないことができるようになることだと思います。これは「スキルを磨く」ではなく、「魂を磨く」という表現だと思うんです。今後医療の現場でも3Dプリンターが使えるようになったり、人間が「生きる」か「死ぬ」を選択できる時代が来るのではと思います。また、もしAIが支配している世界で人間の自己実現が不可能な時代になったら、自分はどうするんだろうと考えていました。
ただ、それでも私は自分がまだできない、感情を司り悟りを開くだとか、世界を平和にするだとか、そんな夢を叶えたいなと思いました。
人間はとことん美しく醜いものだと思います。醜い部分をうまく理性でコントロールし、美しい部分を最大限発揮できるようになりたい。これは言語化が難しいし、感覚でしかないのですが(笑)
皆さんはこの記事を読んでどう感じましたか?
いかなる環境でも前向きに学習する姿勢を崩さず、外部から、そして何よりも自分の内部から何を得られるのかという視点で生きている榎本さん。この予測不可能な時代でも、未来に対して希望を抱きながら、現在の自分を適切に捉え追求する。そのような、自分自身への理解力や周りから学びを吸収する力が、榎本さんの「根拠のない自信」や原動力に繋がっているのではないでしょうか。
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