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ーーーー肉体的にはそれほど疲れていませんでした。私が疲れていたのは、白人の言いなりになることでしたーーーー

*この記事はローザ・パークス自伝 「人権運動の母」が歩んだ勇気と自由への道 潮出版社をもとにローザ・パークスに架空のインタビューを行ったものです。

ゲストプロフィール

Rosa Parks(ローザ・パークス)
1913年生誕、2005年死没。公民権運動活動家。アメリカ合衆国アラバマ州タスキーギで黒人の家庭の下で生まれる。1955年に彼女がバスの席を譲ることを拒否したことで逮捕されてしまうが、これがきっかけでバス・ボイコット事件が発生。公民権運動の端緒となった。公民権運動の母とも呼ばれる。

ーー幼少期を教えてください。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

引用:Googleマップ

1913年にアメリカ合衆国アラバマ州タスキーギという場所で生まれました。アフリカ系アメリカ人で大工の父と教師の母親がいたのですが、私が小さい頃に離婚してしまい、私は母方の祖父母の家で育ちました。

この時に母方の家系の話などをたくさん聞きました。曾祖父は南北戦争が終結し、奴隷解放宣言が出されたことで、家族全員で揃って食事ができるようになった話や、祖父は小さい頃、働いていた農園の白人の監督にひどいいじめを受けていて、会うたびに殴られ、小さい頃口にしたのは、台所で働いている人がこっそりくれた残り物だけだった、という話もありました。このような出来事が積み重なり、祖父は白人に対して強い嫌悪感を抱くようになったのですが、決して白人に対して屈することはなかったそうです。祖父は私に「誰からも絶対にひどい扱いを受けることに屈してはいけない」ということを教えてくれました。

私には弟がいたのですが、とてもいたずらっ子でよく叱られていました。祖母は弟を叱り、鞭で打とうとしていたので、私はよく弟を庇っていました。このようなことから、私は自分自身を守ることを覚えたのかもしれません。また、公平さに対し鋭い感覚を持っていました。この性格のせいで、困ったことになってしまったことも何度もありましたが(笑)

例えばこのようなことがありました。10歳くらいの時、私より少し大きいくらいの白人の男の子と道で会い、彼は「ぶつぞ」と私を脅してきました。私はそばにあったレンガを拾い「殴れるものなら殴ってみなさい」と抵抗したので、その子は何もせず逃げて行きました。私はこの出来事に対して、特に深く考えることはありませんでした。しかし、ある朝この話を祖母にすると、「白人は白人であって、私たちは白人に対してそういう口をきいたり、そういうことをしたりしてはいけないということを、しっかり覚えておきなさい」と厳しく叱られてしまいました。

つまり、白人に何をされても、決して仕返しなどしてはいけないということでした。

私はひどく気分を害しました。自分で自分を防御しようとすることは正当なことだと思っていたからです。しかし、この時代白人が気に入らないことがあると、最悪死刑になってしまう場合があります。祖母はそれを心配してこのようなことを言ったのでした。それ以来白人の子供といざこざを起こすようなことは、あまりありませんでした。多くの場合、白人の子供は白人同士で、黒人の子供は黒人同士で一緒にいたからです。

ーー学校には行っていましたか。

はい、学校は家のすぐ近くの教会の庭の中にありました。学年は1~6学年まであるのですが、たった一つの教室に生徒が5,60人くらいいました。私は学校が大好きでした。休みになると、男の子たちは球技をして、女の子たちはリング・ゲームというもので遊んでしました。体の大きい子たちは、学校で薪の世話をしていました。暖房に使うためです。白人の学校ではこういうことをする必要がありませんでした。白人学校の暖房は市や群が責任を持って行っていたからです。一方、黒人たちは行政からなんの援助もなく、自分たちで学校を建て、自分たちで暖房をしなければならなかったのです。他にも白人と黒人の学校の違いとして、学校に行くことのできる期間の長さがありました。黒人の子達は、春や秋には農作業の仕事があるため、白人に比べて学校に行ける期間が4ヶ月ほど短かったです。

学校に行き出した頃には、私は黒人と白人の間に大きな違いがあることに気づいていました。祖父母の話を小さい頃から聞いていたし、母からは年寄りたちが教えてくれたという奴隷時代の話も聞いていたからです。例えば、奴隷たちは幸せそうなふりをして、白人に信じ込ませなければならなかったそうです。白人たちは奴隷が不幸せそうにしているのを見ると怒ったからです。白人は、奴隷が白人好きだと思うと、その奴隷を少しよく扱ってくれたそうです。農園の主人が死んだ時には、奴隷たちは悲しんでいるふりをするために、頬に唾をつけて、涙に見せかけたそうです。

私は、奴隷時代に生まれなくて良かったと思いましたが、それから何十年経った今も、黒人の生活状態はそれほど向上していないということも知っていました。学校にはガラス窓すらなく、白人の子供がゴミを投げつけてくることもよくありました。

当時は黒人に「公民権」など全然なく、抗議する手立てもありませんでした。とにかく生き延びることが先決だったのです。KKKは黒人のコミュニティーを巡回し、教会を焼き、黒人を殴ったり殺したりしていたのです。白人の暴力が酷くなった時期には、祖父はいつも銃をそばに置いており、「KKKの者が家に押し入ってくるようなことがあった場合、すぐに逃げられるように、服をきたまま寝た方がいい」と話していたことを覚えています。

公民権…公民としての資格。選挙権、被選挙権などを通じて国または地方公共団体の政治に参加できる資格・地位。参政権。

KKK…クー・クラックス・クランはアメリカの秘密結社。白人至上主義団体。

ーー畑の手伝いなどはしていましたか。

私は、6,7才の頃から畑の手伝いをしていました。誰が一番綿を摘めるか、競争してよく遊びました。成長してからは、他にも綿の木の手入れをしたりもしました。綿の摘み取りや手入れは重労働でした。「見える時から見えなくなるまで働く」という言い方があるのですが、言葉通り日の出から日没までみっちり働いていました。

学校は引っ越したり、通っていた学校が潰れてしまったりで何度か転校しました。11才の時にはホワイト先生という、黒人の女子を教育しようとする白人の女性の方が開いた学校に行きました。黒人の味方になろうとするホワイト先生は白人社会の中では当然村八分にされてしまっており、本当に苦労されたと思います。ここでは私は奨学生となりました。

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私たちは晴れている日は歩いて学校に通い、天気が悪い時だけ市街電車で通っていました。ちなみに、この電車は人種別に隔離されており、私たち黒人はできるだけ奥の方に行かなければなりませんでした。人種隔離はこの他にも、公共の水飲み場すら行われておりました。黒人の子供は皆、白人用の水は黒人用の水より美味しいのだろうかと、疑問に持ったことと思います。そんなことは全くないんですけどね(笑)

ホワイト先生の学校で一番学んだことは、「自分は尊厳と自尊心を持った一個の人間である」ということ、「自分が黒人であるという理由だけで、他の人よりも目標を低く持つようなことがあってはならない」ということ、そして「大望を抱き、それは必ず成就できると信じること」でした。これらはホワイト先生からだけでなく、祖父母や母からも学びました。

ホワイト先生の学校には中学2年生まで通っていました。ホワイト先生は大変歳を取られ、それ以上学校の経営が続けられなくなってしまったからです。また、彼女の後の引き継ぎを見つけようにも、彼女の代わりになれる人を見つけることができませんでした。

その後はアラバマ州立大学の実験学校に短期間復学したものの、母が病気になってしまい勉強を続けるのが不可能になってしまいました。私は高校を中退し、弟が働きに行っている間母の面倒を見ました。高校は、結婚してから卒業しました。

ーーどのような方と結婚されたのですか。

夫は理髪師の仕事をしていました。また、彼は祖父を除いて人種問題に関して私がなんでも話をした最初の黒人男性でした。そして、白人を全く恐れない数少ない黒人の一人でした。多くの黒人は、白人に媚びへつらわなければならないと思っており、逆らうことなどできませんでした。しかし、彼は自分が人間であることを信じ、人間として扱われることを望んだんです。

彼はまた、全国黒人向上協会に所属する活動家でもありました。「スコッツボロー事件」は彼に教えてもらいました。この事件は、14~19歳の黒人少年9人が面識もない白人女性を強姦したという冤罪をかけられ、特に証拠もなく調べることもせずに、「裁判をするのは時間とお金の無駄である」として、最年少の少年を除いて8人が死刑になったというものでした。当然黒人は皆この事件に憤慨しました。そして、夫が所属する全国黒人向上協会が事件に乗り出すことになりました。裁判所に掛け合い上訴になんとか漕ぎ着け、何年もかかったのち、ようやくその最年少の子が仮釈放されたのです。夫はそのために尽力していました。私はそんな彼の勇気に敬服していました。そのような活動をすることは、白人から殴られたり殺されたりする原因となったからです。

ーーその他黒人として辛い経験はありましたか。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

当時の社会情勢…南北戦争終結後、奴隷解放宣言が出て黒人奴隷の解放、また憲法修正案第13,14,15条によって「奴隷制の廃止」「黒人の市民権」「黒人男性の投票券」が保証されたが、これらは骨抜きされてしまった。また、ジムクロウ法という法律の制定により、黒人の実質的な公民権の剥奪、また黒人と白人を分離することは差別ではないとして、人種隔離を法律で認めることになってしまう。しかし分離させられた黒人に対する対応は当然白人と同じものではなかった。

モンゴメリーにいた時、私は初めてバスから降ろされる経験をしました。規則に従わなかったからです。バスには36席ありました。前方の席は白人用で後方は黒人用というのが、暗黙の了解で決まっていました。黒人は例え前方の席が空いていたとしても、そこに座ることはできませんでした。黒人はそうした場合立っていなければなりませんでした。一方で、白人の席がいっぱいになった時には、運転手が黒人に対して、白人に席を譲るように命令することもありました。それをどうするかは運転手次第でした。彼ら拳銃を持っており、言うなれば警察的権限をバスの中では持っていました。

私をバスから降ろしたのは、とても意地悪な運転手でした。1943年の冬の日のことでした。やってきたバスは後部は黒人がいっぱいですでに立っている人もいるほどでした。私は前方のドアからバスに乗り込み後方に進もうとしたのですが、その運転手はバスから降りて後方のドアから乗り直すように言ってきました。当然、私はすでにバスに乗っているのだから、わざわざ降りて乗り直すことはないのでは、と反論しました。すると彼は、そうであればバスを降りるしかないと言ってきて、私の袖を掴んできました。私はバスから降りました。私がバスから降りると、バスの後ろの方から「なぜ後ろに回って乗らないんだろう」と言う呟きが聞こえました。彼らは、他の黒人と同じようにしない黒人がいると、なぜそうしないのか不思議がっていました。1940年代のあの頃は、抵抗をすることもなくただ耐えているような時代でした。

私はあの運転手のバスには2度と乗りたくないと思いました。ですから、それ以来バスに乗る前には必ず誰が運転手か確認してから乗るようにしました。

ーーこの頃はどのようなことをされていましたか。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

この頃には、私は全国黒人向上協会の会員になっていました。夫も所属している団体で、人種偏見、リンチ、残虐行為、教育の不平等に反対する目的で結成された団体です。そこで私は、人手が足りなく断ることができなかったので書記になることになりました。報酬はありませんでしたが、仕事はとても楽しかったです。仕事の内容としては、会費の支払いを記録し、それを本部に送ったり、電話の応答をしたり、手紙を書いたり、新聞社にプレス・リリースを送ったりしました。私の主な役割の一つに、人種偏見や不当な扱い、また黒人に対する暴力、と言った事例を記録に取っておく仕事がありました。

中でも印象的だったのは、ある暴力事件のことです。それは、ある白人男性と黒人男性が一人の黒人女性との間で三角関係ができて、白人男性が黒人男性を銃で撃ってしまったと言うものでした。その出来事をある黒人が目撃していました。私はその出来事を筆記しようとしたのですが、彼はその出来事を証言しようとはしませんでした。証言が取れたなら、それをもとに告訴をすることができたのですが、彼が証言をすることはすなわち彼自身の生活を犠牲にするのと同義でした。

第二次世界大戦後には黒人に対する暴力事件がいっそう増えました。戦争に貢献した黒人兵士たちが帰還してきたのですが、彼らは国のために働いたのだからと、白人と同様の権利を持っているかのように思っていました。白人はそんな黒人を生意気だと感じたのです。

ーー逮捕にはどのような経緯で至ったのでしょうか。

まずは、その時の社会情勢から話したいと思います。その当時モンゴメリーには黒人が5万人いました。白人は自分の車を持っていた人が多かったため、バスは主に黒人が利用していました。ダウンタウンに行って白人に仕えるために、週5日、行きと帰りの2回、人種隔離のされたバスに乗らなければならないという侮辱を味わいました。それは本当に屈辱的なことでした。

この状況を改善しようと何度もバス会社、市長、警察などに訴えかけましたが、私たちの声に耳を傾けることはありませんでした。そうであればとボイコットを考えたりもしましたが、他の黒人は「仕事場まで距離がありすぎる」と、協力的ではありませんでした。全国黒人向上協会モンゴメリー支部では、市当局に告訴することを考え始めていました。しかし、それには適切な起訴人と訴訟事実が必要でした。

私と同じように、白人に席を譲ることを拒否して、逮捕された黒人女性はその間に数人いました。しかし、何かしら問題があり、起訴人としてベストな人はなかなか現れませんでした。ですので、私が席を譲らなかったのは、私自身が起訴人になることを目論んでいたのではないか、と聞かれることがありますが、そんな意識は全くありませんでした。

1955年12月1日、私はこの時期大変忙しくしていました。全国黒人向上協会のセミナーの準備に手間取っていたからです。この日の夕方、仕事を終え帰りのバスに乗りました。バスに乗る時、私は誰が運転しているのか見ませんでした。運転手に気がついた時には、すでに料金を払っていました。気がつけば、以前私をバスから降ろした、あの運転手だったのです。もしバスに乗る前にこの運転手に気がついていれば、このバスに乗らなかったでしょう。

私はバスの真ん中に空席を見つけたので、そこに座りました。窓際に男の人が座っており、反対側には女性が二人座っていました。次の停留所で白人が何人か乗り込んできました。前方にある白人用の席がいっぱいになってしまい、白人一人が立つことになってしまいました。運転手はそれに気づくと、私たちの方に視線を向け、「そこの席を空けてくれ」と言いました。しかし、私たち4人は誰も動きませんでした。すると、運転手はもう一度言いました。「さっさと席を空けた方が身のためだぞ」

私以外の3人は席を立ってしまいました。どうして自分の「身のためになる」のか、私にはわかりませんでした。私たちが白人の言いなりになればなるほど、黒人の扱いは酷くなるばかりだからです。

よく人は、あの日私が席を譲らなかったのは、疲れていかたらではないかと言いますが、それは違います。仕事終わりでしたが、肉体的にはそれほど疲れたわけではありませんでした。私は当時42歳で、立つことが辛いわけではありませんでした。私が疲れていたのは、白人の言いなりになることに対してでした。運転手はまだ座ったままでいる私を見て、立つのかどうか尋ねました。私は「ノー」と言いました。運転手は「お前を逮捕させるぞ」と言います。私は「構いませんよ」と答えました。

こうして私は逮捕されました。私は留置所に入れられましたが、夫の知り合いに保釈金を用意してもらい私はすぐ出ることができました。

その後、この出来事を以前より計画していた訴訟のテストケースにすることになりました。私はその起訴人になることになりました。これを契機に、私たちはバス・ボイコット運動を始めることになりました。これには多くの黒人が協力してくれ、バスの中はほとんど空っぽになってしまいました。これが公民権運動の端緒となりました。この運動は1年以上続きました。

この運動はのちに全国に広がり、公民権運動は活発化。1965年8月ついに黒人は公民権を得ることができた。

皆さんはこの記事を読んでどう感じましたか。

ローザ・パークスは、祖父母や先生、夫などから一人の人間として尊厳を持って生きることを学び、逮捕されると分かっていながら、その尊厳を守るために白人に服従するのをやめ、席を立つことを拒否しました。一見すると彼女の行ったことは些細なことですが、この出来事がきっかけでアメリカの歴史は大きく動きました。彼女の人生からは多くのことが学べます。