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――――生きていくうえで、あきらめてよいもの、ダメなもの。――――

ゲストプロフィール

二村ヒトシ(ニムラ ヒトシ)

1964年(昭和39年)、東京都港区生まれ。アダルトビデオ監督。

慶應義塾大学文学部中退。83年に劇団「パノラマ歓喜団」を主宰。88年ごろにAV男優、96年から監督として働き始める。ドグマ、ソフトオンデマンド、エスワン、ムーディーズなどのレーベルから監督作をリリース。

女優が能動的に男性を愛撫してセックスを楽しむ「痴女」や「集団痴女ハーレム」、男優が登場しない「レズ」、女優がフェイクのペニスを装着する「ふたなり」、マジョリティ男性向けのAVなのに女性が一切登場しない「女装美少年」といった、ジェンダーを越境するジャンルのポルノ演出を多数創案開発したエロのイノベーターであり、現在はソフトオンデマンドの顧問を務めている。

また、家族からの抑圧や社会の構造による男女それぞれの「自己肯定感の喪失」が原因の「恋愛やセックスの困難」について論じた著書に『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』『すべてはモテるためである』『あなたの恋が出てくる映画』、

共著に『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』『どうしたら愛しあえるの ーー幸せな性愛のヒントーー』『男の作法 秘技伝授』『モテと非モテの境界線』『オトコのカラダはキモチいい』『欲望会議』等がある。

ツイッターID:@nimurahitoshi

ーーー幼少期の生い立ちを教えてください。

幼いころに両親が離婚して、シングルマザーの母に育てられたんですが、彼女は開業医をしていて経済的には裕福でした。ただ、小学校から慶應(幼稚舎)に入れられたので周りには与党政治家や企業経営者など桁外れの金持ち、ガチの日本の支配者層の子弟もいるなかで、父親がいないというのはマイノリティでしたね。

幼いころからオタクでした。「オタク」という日本語が生まれたのが、まさに私なんかが中二くらいの頃だったと思うんですが(笑)。スポーツはまったく得意ではなく、漫画や小説を読むのに没入していました。そうした趣味の中でも、ひときわ興味を持ったのが「エロ」です。母は勉強をしろとは言わなかったですが、本は無尽蔵に買ってくれました。お金だけもらって自分の好きな本を選ぶことができたので、図書館では読めないようなエッチな本をたくさん買っていました。

小学生のころ、エロい漫画を学校に持っていってクラスメイトにも貸していたことが教師に見つかり、母が呼び出されたのですが、その時に彼女は学校側に対して一切あやまらず「自分で選んで買ったんですから、この本は、この子に必要な本だったのではないでしょうか。お友達にも無理やり読ませたわけではないでしょうし」と、堂々と私の味方でいてくれました。あとで家では「先生に見つかるなんてまぬけだね」と笑われましたが……。このときの母の姿勢は、私の精神の原点、いや、そんなかっこいいもんじゃないな。ただ単に「エッチなことは好きでいていい」という、社会的にはどうかと思う感性を形成しました(笑)。

ーーーシングルマザーであった二村さんのお母さんはどのようなかたですか?

母は医者の家系に生まれたわけではありません。祖父は大正時代は板前で戦前に飲食の経営、祖母はもともと芸者だったそうです。母は昭和9年の生まれで、娘時代は太平洋戦争ですから、敗色が濃くなると多くの少女は銃後の守りとして軍需工場に動員されて働かされたといいますが、母はそれが嫌で、勉強を頑張って地元の大阪にある医療専門校に進学したようです。終戦後に祖母を連れて上京、慶應病院で働いて博士号を取り、祖母を亡くしてから六本木交差点のところに自宅を兼ねたクリニックを開業したのも本当に偶然の経緯で、関西の有名な美術商の愛人だったお婆さんに気に入られて土地を安く譲ってもらえたからだったといいます。皮膚科と泌尿器科だったので、場所柄もあり有名な芸能人が何人も肌荒れや性病を治してもらいに来ていたのを憶えています。

当時は女性の社会進出は今ほど盛んではなく、やはり多くの女性は男性社会の抑圧のもとにいたので、シングルマザーでありクリニックを繁盛させていた母は異色の存在で、慶應の同級生のお母さんたちからめちゃくちゃモテていました。「二村君のお母さんは自由に生きているね」と思われていたんでしょう。

母は仕事とお酒を愛し、家事は一切やりませんでした。家には女性の看護士さんたちと家のことをしてくれるお手伝いさんが住みこんでくれていて、その人たちが私にとっての母代わりだったので、母は「父親」でした。いや、本物の父親というものがどういうものなのか、その味は知らないんですけどね。おおぜいの母のような女性たちと男のような母親に育てられた体験が、間違いなく私が作ったAVの世界観に影響を与えていると思います。

ーーーAV業界に入った経緯を教えてください。

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母は私を医者にしたかったんだと思うんですよ。でも、なにしろ全く勉強しなかったものでね。中学でも高校でも文芸サークルに入って本ばかり読んでいて、仲間で演劇部を作って自分たちで劇場を借りて公演したりして、文化的には豊かな学校生活を送っていましたが、授業中はとにかく寝ていました。慶應は下から入るとエスカレーター式で大学に進学するのですが、医学部や経済学部といった学部は成績が良くなければ入ることはできません。この時点で私は母の思いを裏切るわけです。

大学在学中に劇団を作って一時はその活動と創作を生活の中心にしながら、卒論を一応は提出したものの単位が足りず、大学は中退することにして、声優の養成所にも通い、雑誌に載っていた求人を見てアダルトビデオの会社に男優として応募もしました。留年してでも卒業して一般企業に就職しようという発想は、なかったです。

声優としては芽が出ませんでした。同じ養成所の同期生に子安武人さんがいます。また主宰していた劇団もある程度の評価はえたんですが、しばらくして解散することにしました。その時代に小劇場の演劇界でずば抜けて面白かったのが、松尾スズキさんが主宰し宮藤官九郎さんや阿部サダヲさんが所属する劇団「大人計画」でした。

私は大学卒業にしても演劇にしても「あきらめた」というか「挫折した」のかもしれません。ただエロに関してだけは、結果が出るまで止めなかったんですね。なぜなんでしょうね。とにかく当時は「おれのエロさがお金にならないわけがない」「おれがエロいと思うセックスを人に見せないのは、もったいない」と考えていました。いま考えても、あの時、なぜ根拠もなくそう思っていたのかよくわからない(笑)。

最初は「とにかく仕事でセックスがしたい。おれにはその資格があるはずだ!」と思いこんでAV業界にもぐりこんだんですが、そこでも早速、挫折を経験するわけです。一流の男優として務まる男たちというのは、精神力も身体能力も、まあ超人なんですよ。加藤鷹さんと3Pをさせられたこともあります。後になって考えたら非常に面白い体験でしたけれど、やっている時は追い詰められますよ。ただ、そういう日々で「自分で思っていたほどには才能がなかった」と気づかされても、そこで私は、なんだかうまく立ち回ったんですね。超人と比べられなくてすむような、自分一人で男優と監督を兼ねるような低予算の小さい撮影現場を組んだり。

そういう仕事にシフトできたということは、その仕事を発注してくれる人がいたからで、とても運がよかったわけですが。

その後も本当に偶然の連続で、さらなる人との出会いが重なって、しょぼい男優だったのが、いつのまにか大きな会社で有名な女優さんを撮影させてもらえる監督になっていました。子供のころから(エロだけに限らず)小説や漫画をたくさん読んでいたこと。それで食っていくことはできなかったとはいえ劇団時代に多少の成功体験を積み、創作をする現場にも慣れていたこと。当時のAV業界が過渡期というか再編成の時期で、それほど実績のなかった私でもオリジナリティのようなものさえ見せれば登用してもらえたこと。

なによりも、ただ女体を男の欲望の対象にするのではなく「女性はどんな性的欲望を持っているのか」に関心を持つという私自身のフェチズムが、当時のエロ業界のトレンドにマッチしたようです。それまでのAVは、ただ男優が女優をいかせようとするだけ、それに合わせて女優は演技をしていればいいという感じのものも多かったのですが、それではつまらない、エロくないと思っていました。私は男性よりも賢くて強い女性が、はげしく発情して欲望をみたすというシチュエーションに興奮を覚えるので、その世界観を作品に反映させました。これがいわゆる「痴女ビデオ」の原点です。皆さんもお好きでしょう?(笑)

また、私は撮影をする前に女優さんとなるべくしっかり話をするようにしていました。AV女優になった動機の本音や、それまでの恋愛のエピソード、オナニーのネタなどを時間をかけて聴いていくと、子供の頃からの親御さんとの軋轢があったり、支配的な彼氏とのセックスにうんざりしていたり、BL(ボーイズラブ)愛好家であったり男性になってみたいという妄想をしていたり等の話が出て、それぞれ本当に興味深かったのです。その対話の時間を通じてわかった女優さんの個性や考えに合わせてストーリーの構成や性交の内容を調整しました。本人に合わせる作業をしておくと、あたりまえですが撮影のセックスなのに、よりエロくなるんですよ。女優さんも「これは自分のセックスである」と感じながら演じてくれるからでしょうかね。

2001年ごろから数年は、私が監督したAVはとにかくよく売れました。現在は半ば引退したような状態で、現場ではなく会社で後進の指導に当たったり、それでも私にしか撮れないマニアックな作品の撮影は1ヵ月か2ヶ月に一度は細々と続けていますが、性や恋愛についての自分の考えを書いたり人前で述べたりする仕事のほうが多いです。じつは恋愛に関する本を最初に書いたのは、監督として売れる直前なんですけどね。これは小さな出版社から依頼があったからでした。その本『すべてはモテるためである』と、こちらも10年ほど前に書いた『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』の2冊は、おかげさまでいまだに毎年のように増刷がかかり、皆さんに読んでいだだき続けています。

挫折というか、やりたかったことがうまくできない、途中でうまくいかなくなるというのは誰にでも起こりえると思います。ただ私の場合は「自分が何をやりたいのかがわからない」と思うことだけはありませんでした。やりたいこと、その時やるべきことのほうから「こちらに向かって来てくれる」というのが実感です。

その時やりたいことをやっていると、だいたい出だしはうまくいきます。そして、それがうまくいかなくなると、なぜかすぐに人との出会いによって別の「その時やりたいことができる場所」が見つかるので、そこに自分の居場所を確保するようにしてきましたね。それと、演劇をしているときは「子供の頃からオタクだった蓄積があったからうまくやれているのだ」と思い、AV監督をしているときは「演劇の経験があるから今これができているのだ」と思い、文章を書いているときは「AV監督として実績があったから今これを書かせてもらえているのだ」と、思うようにしているというより、本当にそうなんです。そうとしか言いようがない。

ですから、いろんなことをやってきたようですが、じつは子供の頃からずっと同じ一つのことを(場所を変えて)やり続けているだけという感覚もあるんです。

できなくなったことは、わりとすぐあきらめる。あきらめることで自分の個性や適性が発見されることもあるように思います。また、よく考えてみると、私が自分から「なりたい」と夢見ていたのは小劇場演劇界のスターまたは人気声優または一流AV男優だったわけですが、それらはどれもうまくいかず、しかし「こういう本を書いてください」と「男優より監督のほうが向いてるんじゃない? うちの会社で監督をやってみなよ」とは、どちらも人から依頼されたことなんですね。だから私には「その時、他人から求められたこと」を「それが自分が本来やりたかったことだったのだ」と頭のなかで書き替える能力があったようにも思います

本人よりも他人のほうが、その人には何ができるのかが冷静にわかるというのは、よく聞く話ですよね。そうだと思います。ただ、だからといって、なんでもかんでも人の言うことに従っているのは、よくないとも思います。やりたくないことはやらなくていいと思うんです。相手の望みを自分の欲望に変換できるか。これは恋愛やセックスの上手下手とも関係ある話のような気もしますね。

ーーーこれまでの人生でやってよかったこと・やっておけばよかったことはありますか?

やってよかったことは、これまでの人生のすべてです。これも「そう思うようにしている」のではなく、どう考えても本当にそうなんですよ。そのくらい私は運が良かった。

外国語を習得しておけばもっといろいろ楽しかっただろうな等は思いますが、もし違う選択をしていたらという仮定は考えてもキリがないでしょう。ダメだったことはダメになるべくしてなったと思っているので、後悔というものはあまりないですね。

ーーー最後にこの記事を読んでいる人に向けてメッセージをお願いします。

自分という謎」を解くために時間を費やさないのは、もったいないですよ。人間ってそのために生きているんだから。

疑問に思いませんか? なぜ自分はこんな欲望を持っているのか、なぜ自分は「こういう人間」なのか。どうすれば自分はもっとモテる(愛される)ようになるのか、どうすれば他人を愛せるようになるのか、どうすれば自分はもっと生きやすくなるのか。

今ある「あなたの思考や感情のクセ」や「ものたりなさ」や「不幸」や「欲望」や「性癖」は、生まれついた気質、たまたま子供のころ手に取って読んだ本、親との関係性、つきあった相手といった「過去」によって形成されているわけです。そして勉強でも仕事でも恋愛でもトラブルでも、これからやったり起きたりする人生のすべては、いったい自分は何者なのかという不思議な謎を解くためにあるんですよ。

学校や会社や社会や家族が課してくる「やらなければいけないこと」も全部、自分が考えたい自分自身についての問い、生きていく中で出会った「自分のテーマ」に結びつけて考え、その手がかりにすることができるはずです。

皆さんはこの記事を読んでどのように感じましたか?

今でこそAV監督という肩書き、セックスや恋愛について考えて語る人というキャラクターが二村さんの人格と一体化しているように見えますが、実際その背景には様々な挫折、あきらめたことがあったそうです。しかし、あきらめることによって見えてきた自分の個性(得意なことや、人から求められること)を信じて新しい仕事でも精を出されました。その中で1つだけ、二村さんが「あきらめていないもの」があると思います。それは仕事や目標が変われど、自分の「欲望」をそこに表現し、反映させることです。だからこそ二村さんが作ってきた作品(AVに限らず著書なども)には二村さん独自の魂やエネルギーが吹き込まれ、コモディティ化された商品にはない魅力を持っているのだと思います。筆者も今後の人生で絶えず「自分という謎」を問い、それを何らかの形にすることを大切にしていきたいと思いました。