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ーーーー両親の死別、度重なる災害、厄介な上司、これらを乗り越えた先に見つけたものとはーーーー

*この記事は松沢成文教養として知っておきたい二宮尊徳 日本的成功哲学の本質は何か』PHP新書をもとに二宮尊徳に架空のインタビューを行ったものです。

ゲストプロフィール

二宮 尊徳(ニノミヤソントク)
1787年生誕、1856年死没。江戸時代後期の経世家、農政家、思想家。相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)の百姓の家の長男として生まれる。幼い頃から勤労、勤勉であり、その才覚が買われ、桜町の財政改革をはじめとして、生涯で600以上もの村の財政再建に携わる。

ーー幼少期を教えてください。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

二宮尊徳出生の地

引用:Googleマップ

1787年に生まれました。時代としては徳川家斉様の頃で、江戸時代後期といったところでしょうか。相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)の、そこそこ裕福な百姓の長男として生まれました。

しかし、父は優しすぎるというかあまり考えがないというか、困っている人は放って置けない性格らしく、誰彼構わずお金を貸していたため返ってこないこともよくあり、どんどんとお金がなくなっていきました。さらに私が5歳の時には、そこに追い討ちをかけるように、南関東を暴風雨が襲い、近くの川が決壊して持っていた田畑は荒れてしまい家も流されてしまって、家計はさらに苦しくなりました。父は体が弱く眼病を患ってしまったため、12歳の時から父に代わって地域の仕事を手伝い始めました。私は、年少ゆえ人一倍働かなければ、一人前の仕事ができないと思い、仕事が終わり、家に帰ってから他のみんなのために草鞋を作り、配って回りました。みんなボロボロになっていたので、喜んでくれてよかったです。

このように尊徳の行動は勤労、勤勉という真面目さと、ユニークな発想を持ち合わせたとても子供らしからぬものでした。このほかに尊徳は、他家の子守に出て小遣いをもらうようになると、そのお金で松の苗木200本を買い、川の堤防に植えたことがあります。松が育ち根を張ることで、堤防が丈夫になると考えたからでした。尊徳には生涯を通して、このように独創的な発想を発揮した逸話が多く残っています。

私が15歳になる頃に父は亡くなってしまいました。弟は2人いましたがまだ幼く、私が一家4人の生計を立てるために必死に働きました。また、父や母に似て勉強をするのがとても好きだったため、薪を取る行き帰りは、よく本の音読をしていました。1日の流れとしては、鶏がなく頃に起きて遠くの山に出かけ、柴を刈ったり薪を切ったりして、約8km先の小田原までそれを売りに行ってました。夜は縄をない、草鞋を作ってましたね。母親を安心させたくて、家族全員で一緒に住むために頑張っていました。

その後程なくして母も亡くなってしまいました。この時僕の家に残されていたのは、300坪ほどの田地と、家の敷地は広かったので、そこを畑にした部分でした。これだけあればなんとか弟たちを養うことができそうだったので、親戚の手も借りながらなんとか田植えを済ませました。しかし、ここでさらに悲劇が襲います。田植えを終えたばかりの田畑が再び、川が決壊して濁流に呑まれてしまいました。こうしてもうどうしようもなくなり、伯父のもとで厄介になる身となりました。

ーーこれまで様々な困難があったようですが、伯父さんの元ではどのように過ごされたのでしょうか。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

朝昼は伯父さんの家業を手伝い、夜は寝ずに勉強をするという日々でした。しかし、伯父さんはこれをよく思っておらず、「灯油が勿体無い、百姓なのに勉強して何の役に立つのだ」と怒られてしまいます。そこで私は、友人からわずかの菜種を借りて空き地にそれを撒いてみました。すると、翌年にはその百倍を超える量の菜種が収穫できました。これを油屋に持っていき、油に変えてもらい、その油を使った灯りで夜は読書をしていました。

尊徳は昼間は人一倍働き、夜には鶏が鳴くまで勉強を続けていた。また稼いだお金を名主に預け、そこで得た利子は村の貧困な人々に少しずつ分け与えていた。尊徳はこのように若い頃から、後年、尊徳の核となる報徳思想の精神を持ち合わせていた。

私が16歳の時、洪水で不用の土地となっている場所がありました。休みの日にはここを開墾して、村民の捨て苗を拾って植えておきました。すると1俵ほどの収穫を得ることができました。ここでの経験が、「さな努力の積み重ねが、やがて大きな収穫や発展に結びつく。」という積小為大の考えにつながりました。

結局伯父さんの家には16歳から2年ほどお世話になりました。仕事に勉強と忙しい日々でしたが、ただ漠然と働くのではなく、何か工夫できるのではないかと考えて、いろんな発想をできるように努めました。

ーー独立してからはどうされましたか。

小田原藩家老の服部家の用心のもとで子供の家庭教師として奉公をしていました。この頃には、自分の家計にもだいぶ余裕が出てきて、服部家の奉公人に金貸をしたりもしていました。もちろん利子はとり、期日はちゃんと返してもらうようにしています。

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この時の逸話としてこんなことがあった。ある台所女中が尊徳に借金を申し込んでみたが、実家が貧しいためだいぶ先の分まで給料を前借りしており、返済はとても難しいようだった。しかし、尊徳はなんとか力になってやりたいと思い、その女中にアドバイスをした。「これまで炊事で使っていた5本の薪を工夫して3本でやりくりするようにしなさい。残った2本を私が買い上げて、それを返済に充てるようにしよう。台所で使っている鍋や釜のそこについている炭を落とすことで熱の伝導が良くなるでしょう。また薪の並べ方を工夫することで、より強い火力を得ることができるでしょう。」女中はこのアドバイスに自分なりの工夫を加えて、薪の消費量を減らすことができ、借金をついに返済することができた。

尊徳の辿り着いた報徳思想の中には「勤労」という考えがある。これは単に真面目に仕事に取り組むだけではなく、一生懸命働く中で知恵を働かせて労働を効率化し、新しい価値を創造する、という意味も含んでいる。この女中の薪の話は、まさに勤労をよく表した話であるだろう。

私が28歳の頃には服部家の中で「五常講」という組織を作りました。この組織は相互扶助金融制度を目的にしたもので、簡単に言えば儒教が重んじる「仁」「義」「礼」「智」「信」の道によってみんなでお金を出し合い、困っている人にお金を貸すという制度でした。これによって金詰まりに陥った人は助かり、貸し倒れがほとんどなかったため、お金を貸す方もほぼ確実に利子を稼ぐことができたため、ともにwin-winの関係を築くことができました。

この制度は後に、小田原藩全体に規模を広げることになり、今日の協同組合の走りといえる。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

また、この頃ある出会いがありました。小田原藩主の大久保忠真様です。忠真様とは以前、短期間のうちに田畑を復興させたということで表彰してもらったことがあり少しお付き合いがありました。忠真様はその後江戸での勤務となったのですが、百姓の生活を改善したいと思い、百姓のためになる改革案を聞かれたことがあったのです。そこで私は桝の統一を提案しました。当時、米の年貢を納めるときに、米の量を測る桝が統一されておらず、なんと18種類ほどもありました。これでは役人によって多く米が徴収されてしまうこともありました。この願い入れが聞かれて、桝を統一して百姓の方々が余計な税金を取られることがなくなりました。

ーーこれらの出来事が買われて、次は服部家の家政復興を頼まれたそうですが、それはどうだったのでしょうか。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

29歳の時、服部家の家政復興を頼まれました。当時の不況も相まって、服部家は大きな借金を抱えていたのです。この再建はとても容易なものではありませんでした。私は、これを返済するための計画案を提出しましたが、この計画はうまくいかず、翌年には逆に借金が増えてしまう結果となりました。これには、武家のもつ致命的な弱点がありました。財政再建の根本原理は「入るを量って、出るを制す」ですが、武家の収入は毎年一定の俸禄だけであり、参観交代や冠婚葬祭など、義務的な出費が多いため、収入を増やすことも、支出を減らすことも極めて難しい状況でした。結局私がいるうちに借金の完済は難しく、30年ほどかかったようです。

しかし、この時の経験は、真の改革というのは武家などではなく、勤勉や分度が成り立つ農村で成り立つのではないか、という考えが生まれるきっかけとなりました。

分度とは、自分の置かれた立場や状況を弁え、それぞれの収入に対する支出を予算だて、その予算の範囲内で生活することを意味する。報徳思想の重要な考えの一つである。

ーーその後さらに、小田原藩の財政改革も頼まれたようですが。

はい。ですが、初めは百姓の私に藩の財政を任せるなど身分不相応だと、反対の声があったようです。なので、忠真様は誰も反対できないだけの実績を私に積ませてから、藩の財政を任せようとまずは、桜町領(現・栃木県真岡市)の復興改革を私に命じました。

初めは断っていたのですが、忠真様の熱意に負けて私はこの村の復興をすることを腹に決め、故郷の財産をほとんど処分して、家族とともに桜町に越すことにしました。

まず私は、この町で財政再建ができない理由は補助金があるからだと考えました。村に何度も足を運んだ結果わかったのは、土地が貧弱になり、村民の怠惰も極度のものになっていたことです。財政再建のために、返済の必要のないお金を渡すことで、村人は財に心を奪われ、それぞれ利を争うようになり、復興の道を失い、人情を破り、事業も中廃するのです。このようにかえって災いとなっていると感じました。仁によって、心理的なところから復興する必要があるのです。そのため、補助金ではなく融資をして、返済の義務を負わせることにしました。

次に行ったのは、村落共同体の再建です。米作りは何より共同作業が必要となります。豊富な水を得るための用水路を整備するのにしても、田畑にまく堆肥を得るのにしても、田植えや稲刈りなどの作業でも多くの人手が必要です。しかしこの村は、その共同体が崩壊しており、共同作業というものがままならない状態でした。

それを再建するために、村民で話し合いを徹底的にする場を設け、表彰者を選挙で選ぶ制度を作り表彰者を選んでもらったり、復興資金の用途を話し合ってもらったりと、コミュニケーションの場を作ることで、村落共同体を再構築することができました。もちろんこれで、生産力がさらに上がることになりました。表彰制度によって、真面目に取り組んでいるものには表彰をして、怠惰なものには心改めるよう指導することで、人々の意識を変えることを目指しました。

またその他にも、村には荒地が多く、新田を開拓すれば多くの米が収穫できるけど、百姓の数が足りないという問題がありました。それを解決するために、他の村から働ける人を誘致するということをやりました。

この当時、本来であれば他の村から労働者を誘致などすれば、その村の労働力が減ってしまうため、最悪の場合流血沙汰にでもなる行為であったが、本の筆者はこの時、尊徳は一向宗の教えを利用したと考えているようです。この時代では、人口調整のために胎児の堕胎や、赤子を窒息死されるということが普通に行われていましたが、一向宗は宗教的な理由からそのような行為は禁じられており、自然と子沢山となっていました。しかし、土地には限りがあるため、一向宗徒その問題に頭を抱えていました。尊徳はそのような子を移民として呼びかけたといいます。

ーー再建をする中で困難なことはありましたか

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

大変だったのは、上司に豊田正作様が就任したことです。この立て直しは、ありがたいことにこれまで全て私に一任してもらっていたのですが、豊田様はそこに介入してくるだけでなく、邪魔をしたり、農民の方々に私の悪口を言ったりとしていました。

そうしたことで次第に一部の武士の間では私の評判は悪くなっていき、再建の仕事は大きく停滞することになりました。停滞するだけならまだしも、喧嘩が絶えなかったり、移住してきた方に対するいじめがあったりと、多くのトラブルを抱えていました。

私は一度村を去り、成田山新勝寺で修行をすることにしました。

21日間の断食の修行です。

この修行の中では私はある悟りを掴みました。それは一円観というもので、簡単にいえば、善と悪、苦と楽など、世の中のありとあらゆる対立するものを、実は、対立物とは見ないということです。これらは一つの円の中の相対的な構成要素であり、善と悪は対立・闘争するのではなく、溶け合い、調和しあってこの世界を形づくっているのです。つまり、村の住人の方々には絶対の善人も絶対の悪人もおらず、自分の接し方次第で、どんな人の心も動かせると考えました

修行を終えると、村の方々が私を探し当てて会いにきてくれ、復興事業の継続を頼まれました。一円観を悟った私は、もう心配することなく村に戻ることにしました。戻ってからは、これまで私に抵抗してきていた役人の方や百姓の方も、抵抗することなく、復興事業は順調に進んでいくことができました。最終的に復興事業は無事達成することができ、見事財政再建を成し遂げることができました。

ここでの様子は全国に広まったようで、全国から復興を求める声や、仕法の指導のお願いをされるようになり、生涯で600以上の村の再建に尽力しました。

尊徳はこれらの活動の中で、単なる経済活動だけなく、社会を健全に発展させるには「道徳」が何より必要不可欠だと考えました。尊徳はこんな言葉を残しています。道徳を忘れた経済は、罪悪である。経済を忘れた道徳は、寝言である。」時に道徳が忘れさられ、経済活動を盲目的に突き詰めることや、経済より道徳を至上のものだとして経済を下に見ることがありますが、尊徳は道徳と経済そのどちらもが等しく大切であると考えています。道徳だけでは何も生み出すことはできません。経済を実践することで初めて社会を発展させることができます。これは、先程の一円観から導き出されたものです。この考えは後世にも引き継がれ、渋沢栄一などに強い影響を与えています。

皆さんはこの記事を読んでどう感じましたか?

尊徳は貧しい状況や百姓だからと甘んじることなく、幼い頃から努力を重ね、その中にも知恵を絞り独創性を発揮して、人のために尽くしてきました。桜町の復興の際には、自分の土地を全て売り払って、その身を復興支援に捧げています。

尊徳は単に薪を背負いながら読書をするほど勤勉だったというわけではなく、アイデアマンであり、コンサルタントであり、人のために尽くす愛のある人間だったのではないでしょうか。