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ーーーー「できるけどやらない選択をする。」ーーーー

ゲストプロフィール
Thomas Rennique Oshane(トーマス・レニック・オシェイン)
1997年2月26日生まれ、現在24才。ジャマイカのスパニッシュ・タウンで生まれ育ち、18歳で首都キングストンに移る。カナダ留学やジャマイカ外務省へのインターンシップを経て、Kingston University of the West Indies(UWI大学)を卒業。JICAのプログラムにより二年間長崎県で英語教師として勤務後、一橋大学院へ入学。友人からはレンと呼ばれている。
ーー中学時代までを教えてください。
18歳で首都キングストンに引っ越すまで、ジャマイカのスパニッシュ・タウンで生まれ育った。でも、9歳の時に両親が離婚して、あまり恵まれていない場所で育ったから、11歳まで母親と姉1人と妹2人の家庭で育ち、その後は親戚の家を転々としてた。子供の頃は、スポーツには向いていなかったけど、読書や勉強には結構オタクだったかな(笑)知らないことを知るのが好きで、学校では音楽と社会の勉強がめっちゃ好きだった(笑)

(小学校の卒業式でのレンさん)
ーー中高時代について教えてください。
ジャマイカでは中高は7年間一貫。日本でいう中学3年間は、母がスペイン語の教師をしていたこともあって、語学が好きだった。英語が母語なんだけど、スペイン語、日本語、ジャマイカのパトワ語が喋れる。フランス語は喋れたけどもう忘れちゃった(笑)
中高7年間通して打ち込んでいたのは、ボーイスカウト部とクイズ部の活動。ボーイスカウト部では登山やキャンプだけではなく、ジャマイカの兵士とトレーニングも行った。その経験から今もキャンプするのが好きだね。

(ボーイスカウト部でのレンさん)
クイズ部には、もともとスペイン語とフランス語が得意だと知られていたから、語学担当としてスカウトされた。入部後は、化学、物理、英語、スペイン語、フランス語の担当だった。チームで、各自何科目か担当するんだけど、自分はキャプテンだったから、自分の担当科目以外の知識もつけようと様々なことを勉強し始めた。
ちなみにジャマイカの義務教育は中高の最初の5年間までなので、5年終了時に一度卒業して、継続したい学生だけ残りの2年間を継続するんだ。僕みたいに将来何をしたいか分かっていない学生は大体続けるかな(笑)

(高校の卒業式でのレンさん)
ーー大学入学について教えてください。
ずっと理系だったから、大学にも最初は生化学部に出願して受かった。クイズ部にいた最初の2年間は自分の担当科目しか勉強できなかったんだけど、チームメイトの担当科目について勉強し始めて、歴史や日本に興味を持った。それからグローバルな知識を得たいなと思って、合格後に大学に連絡して、文系の国際関係学部に変更したいと連絡した。8月には大学が始まっちゃうんだけど、直前の7月くらいに学部変更をしたから、結構批判された(笑)クラスメイトから「バカなの!?」ってめっちゃ言われた。先生達からも理系に進むと期待されていたから、みんな落ち込んでた(笑)でも自分で決めた道だから悔いは無かったよ。
それまで日本と関わりは全くなかったから、なんで日本に興味を持ったかは本当にわからない。だけど、語学を勉強していたので、文字も違うアジア系の言語を学びたいなと思った。クイズ部の影響もあって、僕はいつでも知りたいことをググってるから、よく日本についてもネットで読んでたよ。

(大学の日本語の先生とレンさん)
ーー大学生時代について教えてください。
大学1年生から日本語の授業を履修して勉強し始めた。理系から文系に変わったわけだけど、最初に履修した政治の授業の中間試験でトップを取った。大学から、ウサインボルトのレストランの無料クーポンをもらって、食べに行ったよ(笑)全部クイズ部のおかげで、ずっと文系をやってた人より良い成績が取れたからびっくりした。
大学2年生では、高校時代に行ったパナマへの短期留学が楽しかったということもあって、カナダに1年間留学した。もともと日本に留学しようと思ったけど、高すぎて諦めた(笑)夏休みの間は3ヶ月くらいフロリダの親戚の家にいて、そこからカナダのウィニペグ大学に行った。これまで、ジャマイカ、フロリダという暖かいところから一気に寒いところへ行ったんだけど、マイナス30度という初めての冬を体験できてよかった。カナダには、ジャマイカの大学ほど人はいなかったけど、みんな優しくて良い環境だったな。留学のアドバイザーもいたし、教会にはジャマイカのコミュニティーがあったし、大学の周りにはバーやクラブもあった。カナダでは周りに支えられていて、とても居心地がいい場所だった。
1年の留学を終えてジャマイカに戻った後は、サマースクールに通って、ジャマイカの外務省にインターンをした。大学1年生の時の成績で、国際関連の学生のトップ25人はインターンシップができるんだけど、自分はトップだったから外務省でインターンできたんだ。正直周りから嫉妬された(笑)1ヶ月間のインターンだったけど、理論的な大学の勉強ではなく実践的な経験が詰めて、達成感もあった。外務省の人たちとは今でも連絡をとっていて、現在の駐日ジャマイカ大使もインターン時に外務省にいた人だから仲良くしてるよ。

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(大学1年生のレンさんと当時の日本大使と奥さん)
ジャマイカの大学は3年で卒業なんだ。その後は、ジャマイカでお世話になったJICAの日本語教師の方から紹介されたプログラムで、日本で教師として働こうと思った。元々はスペイン圏に行くことも考えていたけど、日本語を学びたいという気持ちがあったし、このプログラムだとお給料がもらえるから、来日することにした。当初は別の場所を希望していたんだけど、長崎に行くことになった。でもクイズ部の歴史の知識から長崎のことを知っていて、あんなに歴史的な場所に行けるなんてと嬉しく思ったよ。

ーー初来日時の日本の印象について教えてください。
今でも来日した日付は覚えていて、7月29日に日本に初めて来た。そこから長崎での英語教師としての二年間が始まった。小中学校を中心に、たまに高校で英語を教えていた。長崎の大村市に住んでいて、田舎だったから英語が喋れる人がおらず、日本語力を上達させるには良い環境だったかな。ただ、来日する前の日本のイメージと違って驚いた点はいくつかあった。まず田舎では思っていたより最新のテクノロジーが普及していなかったこと。それから日本にも恵まれない子供達がいるということ。日本の貧困は想像できなかったんだけど、経済的に苦しんでいる人は日本にもいると分かった。ジャマイカでも自分はそういう街で育ったから貧困問題には興味があって、こういう問題に関しては、自分一人ではどうにもならないけど、知ることで他の人に伝えることはできると思う。それから、学校の建物がすごく古くて、ビルの老朽化にはびっくりした(笑)

ーー英語教師としての生活について教えてください。
先生としての生活は、7時に出勤して21時に退勤。他の22歳の同期の先生は長時間労働をしていて、なんで残業をしなきゃいけないのか理解できず、何故帰れないのか聞いていたな。他にも生徒は自転車で登校できないなど、変だと感じるルールがあった。
それから一番大変だったのは、日本人の建前や距離感を掴むこと。ジャマイカでもカナダでも一橋でも言われるけど、僕はすぐ友達ができる性格。だけど長崎の田舎に住んでいると若者がいないし、一人暮らしだから寂しくて、職場の同期を遊びに誘っていたのに、ずっと建前の返事しかもらえなかった。それから、職場の飲み会ではワイワイするのに、次の日職場で会ったら無視されちゃったり、そういう距離感を理解するのが難しかったかな。
そういう環境にいたから、1年目は友達を作ろうと頑張っていた。ジャマイカではすぐ友達ができたから、友達を作ろうと意識したことがなかったんだけど、日本に来て初めて友達を作ろうと努力した。これまでの人生で無い経験だった。2年目でやっと建前文化を理解することができた。
先生としては、生徒が楽しく学べるように色々工夫をしていた。特に自信がない生徒とかは、昼休みに練習したら授業中に発言できるようになるから、休み時間にも英会話ができるよう教室に行った。小学生はみんな元気で、教室で暴れたりしていたな。逆に中高では周りを気にしすぎて全然発言しない。先生の立場からすると、頑張って授業内容を考えたのに誰も発言をしないのは気分が落ち込む。

ーー長崎での2年間の生活から得た学びはありますか?
長崎での生活は自分の人生のターニングポイントでもあるし、たくさんの教訓を得ることができた。ジャマイカにいた時から、自分の欠点をなくそうという思いはあったけど、同じ言語を喋る人に囲まれて、周りをあまり気にしたことがなく、成長はあまりしていなかった。長崎では、自分と全く異なる人たちに囲まれて、周りに配慮することを学んだ。長崎に住んだからこそ、人の悪口を言わないとか、自分の欠点を直そうと燃えることができた。
それから、自分にとって一番大切なことを優先させることを学んだ。教師の仕事は結構稼ぐことができたけど、自分のメンタルヘルスを犠牲にしてしまった。だから、できることを全てやるのではなくて、自分にとって大切なことを見極めて、できるけどやらない選択をするのも大事だと思う。長崎で2年間務めた教師を辞めた時、他の人からすると稼げるのになぜと思われたかもしれない。だけど、自分にとっては人生の経験とかが一番大事だから、仕事を辞めて、また勉強をしようと一橋に入学した。
これは、人との関係でも学んだことで、ジャマイカにいたときは、自分が嫌なことははっきりと嫌と伝えていたけど、日本に来てから他の人の気持ちを考えてから発言しようと意識するようになった。周りの人の気持ちを優先するために、言えるけど言わないことも大事なんだなと学んだ。それから内省をして、高校生の時に傷つけてしまったであろう友人に謝ることができた。人として他の人にやって欲しくないことをしないということを軸として生きようと考えるきっかけになった。
ーー長崎に住んでいた頃の自分に贈りたいメッセージはありますか?
初めて日本に来たときのレンと今のレンは違う人だよということかな。今の自分に乗り越えられるチャレンジは、きっと過去の自分には乗り越えられなかったと思う。長崎に来て一年目は何度も帰国しようと思ったけど、「できるよ」と伝えたい。峠を越えることができたら、元気になるよと言ってあげたいかな。
ーー大学院入学後について教えてください。
JICAの知り合いの方の紹介があり、奨学金制度を使って、ジャマイカ代表として一橋大学に入学した。長崎では、黒人であり外国人である自分を理解してくれる人があまりおらず、子供はともかく大人からも肌のことについて質問されたり、「外人」として見られていた。東京や一橋では留学生や帰国生も多く、国際色が豊かで理解のある人が多い。普通の人として生きているという感覚があるな。
大学の寮も個室だし、去年はオンライン授業ということもあって、内省することもあるんだけど、自分を変えようと様々な活動をしている。ジムに入ったり、JICAのSDGs実現のプロジェクトをしたりしている。このプロジェクトでは、マッチングアプリの開発を通して外国人の不平等をなくす取り組みをしているんだ。
日本には、言語に障害がある、就活ができない、友達ができない、住居が借りれないなど、日常生活に困っている在日外国人が沢山いて、アンケート調査から見えてきたのは、日本人の外国人に対する理解が低いということ。だから、困っている外国人に対して、様々なサポーターが支援する形のマッチングアプリを作ろうと思った。企業とも打ち合わせをしたところ、アプリを作るのはお金がかかるので、まずはFacebookグループを作って、そこで小さなコミュニティー運営をしている。たくさん会議もあって大変だったけど、自分でやると決めたことだから、やり抜こうと思った。このプロジェクト自体はコンペじゃないし、社会に良い影響を与えるためのものだけど、自分達のグループが優勝し、7月の日本とASEANのフォラムではプロジェクトを発表することができた。これまで、僕はただの怠け者だったけど、今はその欠点を治そうと努力しているし、確実に自分は変われていると思う。
ーー今後の進路について教えてください。
卒業後に日本に留まるとしても1年くらいかな。僕はジャマイカの貧困問題などに興味を持っていて、将来はNPOなどに入って活動したい。自分はシングルマザーの家庭で育って、ずっと父親のことを思っていたから、ジャマイカの同じ境遇の子供達のビッグブラザーになりたい。ジャマイカには、そんな自分の家庭の事情を理解して経済的に支援をしてくれた教会の人たちがいるので、ジャマイカに戻って恩返しがしたいと思う。
ーーレンさんにとって大学とは?
僕にとって大学とは一生の友達ができる場所だし、成長できる場所かな。将来の道を決められる場所。
ーー最後に、レンさんにとって人生とは?
僕が好きなブッダの言葉に、”Life is suffering.”という言葉があって、これが一番よく人生について表していると思う。僕が思うのは、日々辛いことはあるかもしれないけど、人生がいつ終わるのかは分からないから、できる限り今日を楽しく生きるべきだと思う。
この記事を読んで皆さんはどう感じましたか?日本という異国の地で生活をし、様々な経験を経たレンさん。慣れない環境で苦労もあったものの、自分自身を見つめ直し、自分が大切にしていることがより明瞭に見えてきたそうです。できることを全てやるのではなく、何が大切かを見極め、できるけどやらない選択をする。そんな選択が現代の人々の生きやすさにつながるのではないかと、筆者は感じさせられました。
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