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ーーーー社会の最底辺から漢帝国のトップになるまでの道のりとはーーーー

ゲストプロフィール

劉邦(りゅうほう)
前256年(前247年の説も)〜前195年。前漢の初代皇帝。当時中国でど田舎であった泗水郡 沛県で農家の出身。40歳くらいまでは不良の親分のような立場で働きもせず、ニート生活を送っていた。当時中国を治めていた秦はその圧政により、全国各地で反乱が起きていた。その中で劉邦は色々あって力をつけ、秦を滅した項羽との対決に勝利して、漢帝国を建国。その後、漢帝国は約400年続くこととなる。

時代背景

時代は今から約2200年前。当時中国を統一した秦は、法治主義を取ることによってその支配をしていたが、それがあまりに厳格であったため民衆には不満が溜まっていた。始皇帝のカリスマでなんとか統治はされていたが、始皇帝が崩御したことでその不満は爆発。紀元前209年、国家事業である土木仕事に遅刻してしまいそうになったため、陳勝と呉広はどうせ死ぬならと挙兵(秦の法律には仕事に遅刻したら処刑というものがあった)。これをきっかけに反乱軍が力をつけ、その中で項羽軍と劉邦軍という二大巨頭が誕生し、秦滅亡後は、その一騎打ちをすることになる。

ーーどのような幼少期を過ごされましたか

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

劉邦出生の地

引用:Googleマップ

前256年に泗水郡沛県(現在の江蘇省徐州市)で三男として生まれました。泗水郡はとても田舎で、秦の辺境に位置していました。家庭は農家で、決して裕福な生まれなどではなく、歴代中国王朝の中でも珍しい庶民出身です。ただがたいには恵まれており、また顔が龍に似ていたことは、ある種の自慢になっていました。

ただ、かといって仕事を真面目にやるというわけではなく、やるべきことをほっぽり出して街をぶらぶらしていました。農民の出身ということで学も全くなく、街のごろつきとつるんでは、街で飲み歩くという日々でした。飲み屋では一度もお金を支払ったこともなく、いつも踏み倒していました(笑)

解説:このように劉邦は頭が良いわけでも、人から信頼を得ているわけでも、真面目に仕事をするわけでもなく、どちらかといえば不良と付き合ってお金も踏み倒すような不真面目な人間であったが、なぜか劉邦は人から慕われており、後の項羽との戦いや漢帝国建国の際、重要な役割を担った幼馴染の蕭何などは彼の不祥事を擁護することが多くあった。飲み屋を踏み倒すことが許されていたのも、劉邦が店に入ると、彼を慕う人々も店に来て商売繁盛するからであった。彼には人を惹きつける魅力がどこかあったようだ。

ある日、秦全体を凱旋している始皇帝の姿を見た時は「大丈夫、当に此の如くなるべきなり」(男はこうあるべきだよな)と、ただただその姿に羨望心を感じました。

解説:のちに劉邦と対峙することになる項羽は「彼取って代わるべきなり」(俺があいつに取って代わるだろう)と、俺が始皇帝を倒してやるという圧倒的な対抗心を持っており、劉邦とは真反対な性格を持っていた。

項羽…劉邦とは対照的に貴族出身。体も大きく戦の天才であった。項羽の戦いざま、カリスマを見ることで項羽軍も奮い立ち、強力な力を発揮した。一方で実力があることで部下の意見を取り入れることがなく、ほとんどの判断を自身で下していた。捕虜を生き埋めにするなど、凶悪な側面も持っていた。

ーーそこからどのようにして挙兵するに至るのですか

ことのきっかけは友人で役所で働いていた蕭何が、私を役人に推薦してくれたことからだと思います。蕭何はなぜか自分のことを見込んでくれており、当時無職だった私に役人の仕事を与えてくれました。私はそれが嬉しくて、張り切って仕事を行なっていました。

ある時、秦の土木工事をするための労働者たちを引き連れて、その現場まで送り届けるという仕事がありました。そこで初めて、秦の労働や刑罰がいかに過酷なものなのかを知りました。現場までの道のりは険しく、食べ物もろくに取ることができない。この仕事をしても給料が出るわけではないので、その間に一家は飢えてしまう。このような状況に私は同情して、私が寝ている間に脱走する者に対しては、追うことはせず目を瞑っていました。しかし、秦は法律がとても厳しく、一人でも足りなければその引率者である私が責任を負って処刑されてしまいます。その現実に私はやけになり、浴びるように酒を飲んで酔っぱらい、残っていた労働者も全て逃してやることにしました。

解説:このように劉邦はあまり後先のことを考えず感情で動くことが多く、ある種漫画の主人公のような単純さを持っていた。

しかし、逃がされた労働者の中には行く当てがなかったり、食料に困ったりしたので結局は自分の元に戻り、また噂を聞きつけたものたちがそこに合流することで小規模な勢力を作ることになったんです。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

陳勝・呉広の乱

引用:https://reurl.cc/ZjGOAQ

そうして流浪の民となってしまったんですが、その直後に陳勝・呉広の乱が起こり、いよいよ反乱軍の勢力が強大になってきました。そんな時にまたも蕭何が力を貸してくれました。蕭何が私を沛という地域の長に推薦してくれたんです。そうして気づいた時には2,3千の兵力を抱えていることになりました。

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解説:蕭何はかねてより劉邦のことを評価しており、天下を取るのは劉邦のような男なのかもしれないと、終生劉邦を支えることに徹しました。

この軍団で周りの県を攻めに行き、勝ちや負けを繰り返しながら兵力を5,6千まで増やすことができました。といっても戦いに関しては私はさっぱりなので、全部部下に任せていましたが。私は馬の上でどっしり構えて寝ていただけです(笑)これらの戦いの中で私は思わぬものを手に入れていました。それは張良です。彼は兵法を学んでおり、彼に戦を指揮させれば何でもうまく行きました。

張良…漢の三傑のうちの一人。兵法を学んでおり、多くの大将にそれを説いて、自分を用いるように頼んでいたが、聞く耳を持ってもらえなかった。そんな中劉邦だけは素直に張良の話を聞き、張良の策を実戦で常に採用してくれるようになった。

そうこうしているうちについに、関中に入ることができました。咸陽では財宝や宮殿の女性が多くあり、ここに留まって楽しみたかったのですが、部下に諌められたため渋々諦めることにしました。

解説:反乱軍の中で立てていた懐王という王様は、「一番先に関中(秦の首都である咸陽を中心とした一帯)に入ったものをその地の王にする」という約束をしていた。劉邦は質・量ともに項羽とは劣った軍隊であったが、項羽が秦軍と戦っているうちに先に関中入りを果たすことができた。項羽は秦軍との戦いの中で、秦の捕虜20万人を生き埋めにするという蛮行を行っており、その後秦に住んでいた市民を手厚く保護する劉邦とは対象を成している。このように部下に諌められたことを素直に聞き入れ、取り入れることは劉邦のもつ最大にして唯一の長所であると言えるだろう。

ーー関中入りされてからはどのようなことをされていましたか

まずは法三章というものを宣言し、法律を簡単なものにしました。「人を殺せば死刑。人を傷つければ処罰。物を盗めば処罰」というものです。それまでの法律はとても細かいもので、大量の法が存在したため、役人の気分次第で何らかの法律に適応させて処罰することが可能な状態になっていたのです。法三章の制定には関中の民も喜んでくれて、牛などを献上しようとしてくれました。しかし、こちらの食料はすでに足りているし、民は食べ物に困っているのを知っていたのでその申し入れは断りました。その対応に民はより喜んでくれました。

しかし、このように浮き足立っていられたのも束の間でした。項羽が怒ってこちらへ攻めてきたのです。怒るのも当然の話で、我々がいち早く関中に入ることができたのは項羽が秦の主力を相手していてくれたからです。戦っては当然こちらに勝ち目はありません。そこで鴻門にて項羽に許しを乞う場を設けて、何とか許してもらい、私は関中を出て漢という辺境の地に行くことになりました。

解説:これが有名な鴻門の会です。項羽は部下の進言もあり、この場で劉邦を殺すつもりでしたが、劉邦のあまりに激しい謝りぶりに興醒めして殺すのをやめました。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

この時期に新たに仲間に加わった重要人物が韓信です。彼は中華史上でも屈指の戦の天才で、後に項羽を倒す際にもとても大きな役割を担ってくれました。実は彼はもともと項羽陣営にいたそうですが、項羽は自分で何でもできてしまうため部下からアドバイスなどを受けることもなく、自分の力を生かせないと感じた韓信はこちらに来たようです。彼には何の実績もなかったのですが、蕭何が何やら彼に才能を感じていたようなので一気に大将軍まで出世させてやることにしました。

解説:このような、極端なまでの劉邦の人事は彼の一つの特徴です。劉邦は蕭何を絶対的に信頼しており、彼が推薦するのならということで、実績がほとんど無いにも関わらず、中途半端な役職ではなく大将軍まで引き上げてしまいました。のちに韓信は蕭何、張良とともに漢の三傑の一人となり、国士無双と謳われることになりました。(麻雀の役の一つである国士無双の由来です。)

漢という辺境の地に飛ばされはしましたが、項羽を倒して中華統一することを諦めてはいませんでした。項羽は以前秦の捕虜を生き埋めにしたなどの蛮行からもわかるように、民衆から好かれておらず、各地で項羽に対する反乱も頻発していました。項羽はこれらの反乱を鎮圧するために、全国各地へ奔走することになり、我々はその隙にまた関中に入り、ここを占拠しました。(項羽は関中を本拠地としていませんでした。また、関中は穀倉地帯であり、兵站の点で非常に重要な地点でした。)

勢いに乗って、このまま項羽の本拠地である彭城を攻めることにしました。道中の諸侯たちを味方に加えて、こちらは56万の勢力。一方、遠征に出ていた項羽は急いで3万の軍だけ引き連れて帰ってきました。しかしこの戦いで我々は大敗してしまいます。項羽のカリスマ性は凄まじく、項羽軍は予想以上の力を発揮したのに加えて、こちら陣営は数は多いですが、油断していたことや、まとまりにかけていたことで逃げ帰ってしまう兵も多かったです。こちらの軍の死者は10万にも上り、川が死体で堰き止められたほどです。私も命からがら部下一人と、息子、娘と逃げました。

解説:劉邦はこの逃げる最中、馬車の走る速度が遅くなると息子たちを馬車から突き落としています。慌てて部下は2人を拾い上げますが、その後何度も劉邦は子供達を突き落としたそうです。劉邦の性格がわかるエピソードです。

ーー最終的にはどのようにして項羽に勝ったのでしょうか。

先の戦いで敗走後、もう一度陣営を整えて項羽に戦いを挑みましたがまたも負けてしまいます。しかし、良くも悪くも韓信などは別の地域で大きな勢力を形成するようにもなり、また項羽陣営の周りに位置する勢力を引き入れることで、最終的には項羽を東西南北で挟むように攻撃を仕掛け倒すことができました。

解説:韓信が勢力を拡大したことに対して良くも悪くもというのは、劉邦と同程度、もしくはそれ以上の力を手にしている韓信が独立するのを危惧してのことです。項羽を全方位から囲んだ最後の戦いである垓下の戦いから、四面楚歌という言葉が生まれました。

ーー項羽を倒した後はどうされましたか。

鴻門の会の後行った土地の名である漢から、漢という国名で中国統一国家を作り、初代皇帝となりました。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

まとめ

この記事を読んで皆さんはどう感じただろうか。

劉邦と項羽の話からは、リーダーシップの違いを論じられることが多い。しかし、今回注目したいのは劉邦の人生についてである。おそらく、いや間違いなく劉邦は自分が漢帝国を立ち上げることになるとは考えていなかった。出自は田舎の農民であり、お金もない、勉強はできない、性格は良くない、おまけに40歳までニートであった。しかし、蕭何に見出され最終的には皇帝にまでなってしまう。それは劉邦が圧倒的に何もできなかったから、またそれを自覚していたからだと思われる。何もできないからこそ、全てを部下に任せることができた。それによって、韓信という無名の天才を重用することもできた。

劉邦の人生からは、人生何が起こるかわからない、とともに短所は長所となりうるということを学べる。