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ーーーー東日本大震災、青年海外協力隊を経験し、中学校の先生をしている高田さんを支えている思いとはーーーー

ゲストプロフィール

高田裕行(タカダヒロユキ)
福島県いわき市出身。大学進学を機に東京に上京。その後中学校の教師となり、2018年からは青年海外協力隊に参加し、2年間ベナンに赴任。2020年4月からは、再び東京の中学校に戻り、授業の中で、SDGsの取り組みや生き方プロジェクトを行っている。

ーー高校時代までを教えてください

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

昔から明るくて積極的な性格でした。ただ学級委員をやるという感じではなく、自分の一番のハイキャリアは清掃委員の委員長ですね(笑)私の家庭は完全に放任主義で、かなり自由にさせてくれました。私はサッカーをずっとやっていたのですが、試合には応援にきてくれていたので、今考えると応援はしてくれていたのかなと思います。

サッカーを小学校、中学、高校とずっと一筋でやっていて、全国大会に小学校の時に1回、中学で3回、高校で3回出場しました。中学校のときに県選抜でオランダに行ったことも思い出です。香川真司選手、権田選手、遠藤康選手と対戦したこともありますが、同時に高1で「このレベルに行くのは難しい、無理だ」と悟りました。高校サッカーは厳しすぎて、だんだんと楽しいよりもキツイが勝ってくるようになりました。サッカーは高3までやっていましたが、高1のころから段々と進路を見据え勉強もちょこちょこしていました。

ーー大学時代はどうでしたか

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

まず、東京に行きたいと思っていたのと、研究者になってみたかったというのが進路選択の基準でした。中学校の時の国語の先生がすごく面白い人で、基本的にグループワークで、ディベートをやったり、文章題も「この文章の続きを考えろ」というような面白いお題だったり、授業がすごく楽しかったのが思い出に残っていたので、先生の仕事がおもしろそうだなと考えるようになりました。そして、教育系のなかでも、いくらでも広がりのある社会科を選択しました。

入学したての頃には、都会を実感しました。塾がすぐ近くにあり、自分は家事も全部やりバイトで生活資金をやりくりしていたのに、友人は、実家で家事をやってもらって過ごしている。東京にはチャンスがすぐ近くにたくさん転がっているなと思いました。そして、東京の人には絶対負けないぞと思いました。

授業は、おもしろくないただの講義みたいな授業もたくさんありましたが、ある地域を選び授業を作る「臨地研究」というすごく面白い授業もありました。ゼミは社会科教育系で、先生はハワイの多文化研究をしている方でした。本を輪読して議論したり模擬授業をやったりしました。授業以外では、地元の友達とフットサルしたり飲みに行ったり、バイトは塾講師や焼肉屋、居酒屋、味の素スタジアムの売店など4,5個やっていました。

当時の自分は、「社会参加型学習」という生徒を社会課題に出会わせ、その解決に向けて何ができるかという授業について勉強しており、その研究のために大学院への進学を決めていました。

しかし、大学院進学を控えた3月、福島の実家に帰省しているときに、東日本大震災を経験しました。地震直後は何が起きているのか分かりませんでした。自分の故郷、思い出などすべてが失われてしまい、これからどうすればいいんだろうという気持ちでした。大学院に行っていいんだろうかという思いもありましたが、学費は自分で貯めていましたし、親からも自分の場所を確保することを勧められたので、大学院に進学することをやめませんでした。ボランティアもしていたので、平日は大学院、休日は地元に帰るというスケジュールでした。しかし、父親の会社が海沿いにあって、会社が全部流れてしまい、一家の大黒柱が仕事を失ってしまったので、自分も働くことを決意し、7月の教員採用試験を受け合格、府中の中学に赴任しました。その間大学院はやめず休学し、後に大学院に復帰し、研究と先生の二足の草鞋を履くこととなりました。そんな中、教授から、当事者としてしか書けない論文があるからと、研究テーマの変更を勧められ、震災の研究にシフトしていきました。また、震災を経験するまでは、国際協力にはほぼ関心はありませんでしたが、支援をしてくれた国、地域、人がとても多かったことを知ったときは嬉しかったですし、現地の人すら退去するところで、外国人のボランティアの方が精力的に活動している姿に衝撃を受けて、国際協力に興味を持つようになりました。そして、福島が世界中から多大な支援を受けていることに恩返ししたい気持ちも持つようになりました。

ーー社会人になってからはどうでしたか

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

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教師と修士論文の二足の草鞋生活は、とてもしんどく、毎日夜3時に就寝というような状態でした。4年ほど府中で働いた後、島への異動希望を提出し、式根島という人口500人くらいの島で働くことになりました。学校は生徒13人、一クラス3人とかでした。テストの採点5分くらいで終わり(笑)、毎日16時くらいに帰れるようになりました。人生にゆとりができてとても楽しく、空いた時間を使って国際協力について学ぶようになりました。ただ「恩返し」といってボランティアに飛び込むのではなく、しっかりと勉強、準備をして国際協力に向き合いたいと思っていました。

そして、2018/3-2020/3に青年海外協力隊として、西アフリカのベナンに赴任することになりました。気温は40度近くあり、水が白いなど過酷な環境で、ごはんもお米と芋だけで体調を崩したこともありました。ベナンでは40度くらいの酷暑で、朝ごはんもまともに食べられていなかったりするので、毎日脱水症状のような状況で、授業どころではないような状況した。さらに、ベナンの教育費は15,000円くらいかかるのですが、それすら払えない人がたくさんいて、お隣にいた5人の子供は一人も学校に通っておらず、ずっと家の手伝いをしたり、騒いでいたりしていました。小学校で算数の授業を担当していたのですが、教えるときに意識していたことは、勉強を好きになってもらうことです。公用語がフランス語ですが、子供は現地語があるので理解が遅れていて、教材もなかったので、ペットボトルで作るなど工夫をしていました。

仕事においては、教育委員会に入っていましたが、そこでは少しよそ者扱いをされることもありました。相手からしてみれば、言葉もまともに話せない外国人が、あれこれ教育の方法について注文を付けてきている状況です。ただ、子供たちとは打ち解けていたと感じます。「ヨボ(現地語で「白人」)」と呼ばれていつも寄ってきてくれました。

ベナンには奴隷貿易で南北アメリカに送られていたという歴史があり、差別の歴史があるのですが、それでも当たり前のように差別をされたことは驚きました。「お前は白人だ、帰れ!」と言われたり、目を細めたり(日本人の真似)してきました。歴史が繰り返されるということの実感、そしてそういう状況を作り出した先進国の罪深さに衝撃を受けました。

ーーベナンでの経験は髙田さんにどういった影響を与えましたか?

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

ベナンから帰国した後、私は自分の授業では宿題を出さないようになりました。日本では、みんな同じ制服を着てみんな同じように見えますが、本当は家庭によって状況は違うのではないかということに気づいたからです。今までは「やりなさい」という風に頭ごなしに言っていた部分もあったのですが、よく考えてみれば宿題をやりたくても出来ない環境にあったり、別の活動に注力していたりするかもしれません。ただ、このやり方は、なかなか理解されるのに時間がかかりそうだなと思っています。

ーー現在はどのような活動をなさっていますか?

今働いている学校では、SDGSの取組に力を入れています。マインクラフトを使ってSDGsが達成された街をつくってみようという授業を行ったり、JICA,青年海外協力隊、まちづくりの活動されている方とお話をする機会を設けたりしています。また、ベナンにいる時に、教え子から就活について「自分が何になったらいいのかわからない」悩み相談を受けた経験から、生き方プロジェクトという授業も行いました。「10年後の私に出会う」、「20年後の私に出会う」「30年」「40年」…ということを目的に、12時間ほど総合学習として授業を行いました。

ーー今までの人生を振り返って、やってよかったこと、やっておけばよかったこと、そして読者に向けてアドバイスはありますか?

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

やってよかったことは、式根島に行ったこと、ベナンに行ったことを含め、躊躇せず違う環境に飛び込んだことです。

やっておけばよかったことは、高校、大学のころから海外を知っておけばよかったなと思います。あとは、語学です。学生時代は、勉強自体はしていましたが、テストのために勉強してしまっている状態でした。当時は「これって意味ないな」と思っていて、後に語学ほど必要になるものがあるとは思いもしませんでした。

アドバイスは、迷っても迷わなくても、楽しいほう、ワクワクする方を選ぶことです。学生のときは「迷ったら苦しい方を選べ」と考えていました。しかし、社会人になるまでいろんな経験を重ねてきて、ワクワクする方を選ぶことで、彩のある人生になると考えるようになりました。

ーー将来の夢はありますか?また今後どんな人生にしたいですか?

将来の夢は、最終的には研究者になりたいです。もう一つは、島で民宿をやることです。夏は島で民宿をやりつつ、地域振興を材料にしながら、研究をしていきたいです。どんな人生にしたいかは、チャレンジの多い人生、成長を感じられるような人生にしたいなと思っています。

ーー高田さんにとって大学とは?

自己実現のための場所だと思います。大学での選択肢の多さが人生の選択肢の多さに繋がると思っていて、「自分は何がしたいんだろう」と、自分に矢印が向き、自分と向き合うことが出来たのが、大学だったと思います。

ーー最後に、高田さんにとって人生とは?

高校時代に事故で友人をなくしたり、震災で知人をなくしたり、ベナンで生後すぐに栄養失調で亡くなった女の子に出会ったり、死に直面する経験が多かったので、人生は有限で、いつ終わってしまってもおかしくないものだという認識があります。そして、人生を自分にとっていいものにしていけるように、どう終わり方をデザインするかを模索していくことが人生かなと思っています。

この記事を読んで、みなさんはどう感じましたか。

青年海外協力隊など、躊躇せずに違う環境に飛び込むことのできる高田さんはとても輝いて見えました。そして、それができるのは、いつか人生は終わりが来るものだと言う認識があるからなのでしょうか。