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ーーーー人間、成長がとまることはないですからねーーーー

ゲストプロフィール

小野一(オノハジメ)
神奈川県横浜市に生まれる。法政大学第二中学・高校に進学し、中高6年間ハンドボール部に所属。高校3年時には関東大会への出場の経験を持つ。大学は法政大学法学部政治学科に進学し、ハンドボール部の学生コーチとして法政二中の生徒への指導を行う。卒業後は地方信用金庫に就職し、各支店、経営企画部(現:総合企画部)等様々な部署を経験したのち現在は業務部審査役として本部に戻る。大学卒業後もハンドボールを続け、現在も社内のチームに所属して活動。

ーー中学時代までを教えてください。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

神奈川県横浜市出身です。小学生の時はとにかく活発な少年でした。学校の成績もよく、とても楽しい小学校生活でしたね。私の地元の中学はヤンキーが多く、怖い印象があったので中学受験をし、法政大学第二中学校に進学しました。中学ではハンドボールに熱中しました。小学生のときはミニバスをずっとやっていたのでバスケットボールを続けようと思っていたのですが、中1の担任がハンド部の顧問で、仲の良かった友人が皆ハンド部に入部したので私も始めました。勉強を一番やったのも中学時代でしたね。というのも、小3から塾に通ってはいましたが、自分は優秀なんだという過信から家ではまったく勉強していませんでした。実際受験で落ちてしまった学校もあり、母を悲しませてしまいました。それで中学時代は学業と部活の両方を頑張っていましたね。成績は学年でも常に上位10人くらいには入っていましたし、部活でも副キャプテンを務め、レギュラーとしてプレイしていました。

ーー高校時代のことを教えてください

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

高校は内部進学で法政二高に進学しました。高校時代も中学とは変わらずハンドボール漬けでしたが、中学受験以来の大きな挫折を経験したのがこの高校時代ですね。当時、神奈川県の高校ハンドボール界は横浜商工高校(現:横浜創学館高校)の独壇場で、私はそこに勝利することを目標にハンド部に入部しました。しかし私が二高のハンド部に入るちょうどそのタイミングで、新しく赴任した監督が全国から強い選手をスカウトしてきたのです。彼らは本当にレベルが高く、最初私は雑用扱いでしたね。新入生に早々にレギュラーを取られた当時の上級生は、1,2人を除いて皆数か月で辞めてしまいましたし、私自身、監督にも「お前なんかにさく練習時間はない」と言われました。絶対に見返してやりたいという思いもあり、チームの練習は大変でしたが、家に帰っても自主練をするなどしていました。

2年生までは私は2軍チームのキャプテンでした。自分たちが試合に出るためには、スカウト組の1軍の選手たちを倒さなくてはならない。そこで私たちは戦術を考え抜き、部内の試合で最終的に1軍のチームに勝利することができました。それ以降、活躍が認められた私はレギュラーを勝ち取り、横浜商工との県大会決勝戦でも勝利することができました。10数年ぶりに横浜商工の連続優勝を阻み、関東大会にも出場しました。ですが、高3最後のインターハイ予選前に筋断裂を起こしてしまいました。チームも苦戦し、県大会の途中で敗退してしまいました。

一方で勉強も手を抜かずにやっていましたね。週7日、土日も練習というような環境で、周りもそこまで勉強に力を入れているわけではありませんでしたが、評定平均も5段階で4.7とかだった気がします。推薦組に勉強を教えたりもしていました。

ーー大学時代は何をしていましたか?

大学も内部進学で法政大学に入学しました。大学時代は法政二中の生徒にハンドボールを教えることに一番力を入れていました。大学でもプレイヤーとして続けていくことも考えましたが、中学時代に自分をハンドボールに導いてくれた顧問に、コーチを頼まれたんです。私は高1の時に挫折を経験し、努力して何とかレギュラーを勝ち取りましたが、法政二中の生徒が高校に入った時に推薦組と張り合えるように強くしておこう、自分と同じ思いはさせたくない、と思い学生コーチを引き受けました。ほぼ毎日行っていましたし、実際に高校でも活躍してくれた選手もいました。

アルバイトは映画館と新聞勧誘をしていました。正直なところ、大学時代はハンドボール以外の話はあまりないですね笑。勉強に関しても当然単位はちゃんと取りましたしゼミ長もやりましたが、やはり大学時代もほとんどがハンドボールで占められいました。

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ーー進路はどうされましたか?

大学時代に力を入れていたのがハンドボールでしたので、友人関係も自然とそのメンバーがメインでした。進路選択では、ずっとハンドボールのコーチをしていく中で自分は人と話すこと、人に教えることが向いていると思い、教師になることを考えました。ですが私の大学では教員免許をとるには3年ほどかかり、そのためには卒業を遅らせなくてはなりませんでした。当時学費は親が払ってくれており、親自身、教員免許を取るために卒業を遅らせてもよいと言ってくれました。が、そう言ってくれたので私はその道を選びませんでした。自分はこれまで不自由なく育ってきたという点で両親には感謝、尊敬しているので、与えられた場所で頑張ろうと思うようになったんです。そこで教員以外で人と話せる職業を考えた結果、信用金庫が選択肢の一つとして上がりました。ですがぼんやりとしたビジョンでしたし、就活では様々な業界を受けましたね。いくつか内定をいただいた後、全国転勤のなさや、離職率の点から見て今の信用金庫に入庫することに決めました。

ーー就職後はどのような仕事をなさっていましたか?

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

1年目に金融機関の基本的な仕事をしたのち、2年目は融資係に配属されました。まだ2年目だったので事務的な作業がほとんどでした。つまらなかったですが、当時の上司がとても厳しく前日から前もって準備して行っても自分の仕事が評価されず、毎日いびられていましたね笑。後になって自分が仕事をする際に味方になってくれましたが、当時はとてもきつかったですし、中学受験、高校のハンド部入部当初とならんで、自分の中では大きな挫折でしたね。その数年後は営業係に配属されました。自分が外回りに出てから、4年半のうち4年間はトップの営業成績でしたし、最後の2年間で年間1位とり、最短で中間管理職になりました。満足のいく営業成績をとるために意識したことは特にはありません。もちろん最低限の礼儀などは持ち合わせていますが、ありのままの自分で仕事をしています。ですが会社に入ってからも金融面の資格の取得など勉強を続けていましたし、そういったところが影響しているかもしれません。

29歳で管理職になったあとは、工業地帯で下町気質のお客さんの多い支店に配属されました。前任の人はかなり苦労していたようですが、自分はこれまでの経験を生かして仕事をこなし、部下も最優秀プレイヤーになりました。管理職に昇進した後は経営企画部(現:総合企画部)に配属されました。この部署は経営状況を見て政策を立案していく部署で、将来会社で活躍する中で通る道ですが、部署の空気感などがあまり自分には合わず苦労しましたね。6年前くらいからは経営企画部を出て、他の信用金庫と競合する地域を開拓する専属チームのトップとして働きました。その後も別の支店に移ったのち、今また本部に戻りました。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

一方で学生時代に真剣に向き合ってきたハンドボールは、会社のチームで今でもプレイヤーとして続けています。休日には同僚の母校の高校にお邪魔して練習に参加させてもらっています。会社にチームがあるとはいえ、通常であれば練習をするにはコートを借りたり人を集めたりしなければならないので、そういった意味でもありがたいですね。自分もその高校の部員に教えていますし、ぜひ試合には勝ってほしいですね。

ーーやっておいてよかったこと、やっておけばよかったことはありますか?

やっておいてよかったことはこれまでやってきたことすべてですね。部活でもアルバイトでも今の仕事でも、その場その場で自分を成長させてくれるチャンスはあります。中学受験で慶應に落ちたことさえも良かったと思います。慶應に入っていたらハンドボールをやっていなかったかもしれないですしね。

その一方で、今の自分のハンドボールのプレイを見ると、大学でもハンドボールを現役で続けておけばよかったかなと思ったりします。もちろん大学入学時に選手の道を選んでいたら、今の人とのつながりはないでしょうし、違う職場を選んでいたかもしれません。ですが、自分の名前「一」の通り、ハンドボールをさらに極めて大学でも1番を目指してもよかったのではないかなと思ったりもします。

ーー読者に対してアドバイスをお願いします。

人間だれしも自分の選択は自分でしており、当然結果は後からついてくるものです。結果が良かろうとも悪かろうとも、結果が分かるまでその選択はベストだと思って貫いてほしいですね。

ーー今後の目標はなんでしょうか?

感謝の恩返しをしていきたいです。自分もこれまで苦労したことも多くありましたが、与えられた環境を当たり前だと思ってはいけないと思います。家族にも、同僚にも与えられる側の人間になっていきたいですね。

ーー最後に、小野さんにとって人生とは?

努力をし続けることですね。人間は成長が止まることはないと思います。自分が気づかないことかもしれないけれど、努力した結果はあとになって自分に帰ってくるので、努力をやめないことが大事だと思います。

みなさんはこの記事を読んでどう思いましたか?

小野さんは中学校入学時に出会ったハンドボールとこれまでずっと向き合ってきており、ハンドボールを通して挫折、そしてそれを乗り越える経験をしました。こうした若いときの経験が、現在のご活躍に結び付いているのかもしれません。