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ーーーー「結局教員は、生徒に対する教育的な愛情がすべてだ。」ーーーー

ゲストプロフィール

武内彰(タケウチアキラ)
東京都調布市出身。東京都立神代高校を経て、一年間の浪人生活の後に東京理科大学に進学。物理学の教員免許を取得し、東京都の教職員となる。都立秋留台高校、都立永福高校の後、37歳で管理職試験を受け、合格。夜間の定時制高校赴任後、大島南高校教頭、西高校教頭、東部学校経営センター、翔陽高校校長を経て、日比谷高校校長に就任。学校経営改革に取組、進学実績を劇的に向上したことで知られる。現在私立白梅学園高校の校長を務める。著書:「学ぶ心に火をともす8つの教え 東大合格者数公立No.1!! 日比谷高校メソッド」

ーー中学時代までを教えてください

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

東京都の調布市出身です。生まれてから高校までずっと調布市でした。自分とは全く異なり野球漬けだった弟が一人います。区立の小学校、中学校に通っていたのですが、明るくて活発、かけっこは常に1番!というような子供でした。しかし、小2が終わるころに、ペルテス氏病という大腿骨に血が回らなくなる病気を突然発症し、そこから4年間、ベルトで足をつり松葉杖で生活しなくてはいけなくなりました。運動も一切禁止だったのですが、自分では意外と悲観しておらず、松葉杖の状態でいかに速く走るか?などを考えていました。

地元の中学に進むころに松葉杖が取れ、剣道部に入り運動を始めました。かなり強い部活で、東京でベスト8に入賞しましたね。自分は当時も変わらずひょうきんで、廊下に出て歌って踊るような子だったのですが、先生がなぜか自分を学級委員に任命したことを強く覚えています。クラスのために自分が何をできるかという作文を書かされ、「クラスのためにやっていく」ということを初めて考えるようになりました。中2の時も良い先生に恵まれ、自分の生き様とか、先々のことをだんだんと考えるようになった中学時代だったと記憶しています。当時の成績は、数学が3!他は4か5という感じで、当時学区内で3番目の高校だった神代高校を選びました。ここなら、成績上位者に食い込めるかもしれないと思ったんです(笑)トップ校でしのぎを削れるとは思ってもいませんでしたね。

ーー高校時代について教えてください

神代高校では、剣道を辞め、雰囲気の良かったバドミントン部に入りました。日曜も練習漬けで、高3の最後まで部活に取り組みました。リベラルな都立の雰囲気で、私服も許されている共学の高校だったのですが、シャイで、女子と話した思い出はほとんどありません!部活の他には、高3の時にやった演劇が強烈に残っています。大変だったけどやり切った経験でした。そのままクラスが一つになり、受験も乗り切ったということがあり、今もクラス会があります。演劇が一つあることでこんなにも人々がつながるんだなということが印象に残っていますね。

あと、担任の先生も印象的でした。生徒を非常に見守るタイプの先生でした。口を出すなどリーダーシップは発揮せず、でも常にそばにいてくれて、困ったときに手を差し伸べる先生でした。倫理の哲学科の先生で、青年期の自我の確立に携わる先生という存在の大切さを学ばせられた気がしました。この時から、教員という職業に興味はありました。

大学受験では、国立大学を志望していました。ただ、現役の時は結果が出ず、浪人をしていた時も、腐っていて、実は予備校もサボりパチンコに行っていました。今振り返っても、本当にダメでしたね。でもこのダメな時期だった時期が、後の人生の土台になったとも思います。そんな調子だったので結局一浪しても第一志望の国立大学には合格することができず、東京理科大学に進学しました。

ーー武内先生にそういった過去が会ったことは驚きです。大学時代について教えてください

せっかく一年を費やしたのに結果が出なかったので、入学当初は腐っていました。真面目にやってきたのに、報われないんだなと考えていました。今振り返ると自分の実力・努力不足を社会や周り、運のせいにして、なかなか抜け出せないでいたなと思います。が、次第に専攻していた物理学の面白さに気づき、のめり込んでいきました。良き先生、学友に恵まれ、講義だけでなく、図書館にこもったり、わからないことを大学院生に聞いたりして、専門的な知識・知見を深めていくのが面白かったです。ただ、同時に学問領域がすべて頭に入っている大学院生を見て、自分はこの人たちに研究で敵わないなとも思っていました。

教師には興味がありましたが、将来やりたいことがなかなか見つからず、大学4年の時進路決定を先送りにして、あえて2単位を残し留年をしました。なので、実は2年周りより遅れているんです(笑)その中で参加した教育実習が、私の人生の一つの転換点となります。教育実習先には、掃除当番なのに掃除に全然参加してくれない女子生徒がいたんです。当時の私は指導方法もわからず、色々悩みながらも掃除をしている姿を彼女に見せるということしかできなかったのですが、明日で私の教育実習が終わりというところで、初めて掃除に参加してくれました。

何かと将来について悩んでしまい、大学院生と比べて何もできないと思っていた自分も、これなら、生徒と向き合うことならできるかもしれないと思えた瞬間でした。

ーー卒業後について教えてください。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

新任教師時代の一枚!

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初めは都立秋留台高校というところに着任しました。ここは、それまでの自分とかなり異なる生活を送ってきた生徒が多く、非常に苦労しました。1学年90数名以上が問題を起こし退学していくような学校で、喫煙、盗難、暴力は当たり前でした。何より、今までの常識が通用しないのです。黒板に文字を書いて授業をやっても、誰も聞いてくれません。どうしよう、とずっと模索していました。

当時、東京物理サークルという、物理の指導術をシェアする集まりに入っていたので、そこでの知見も得ながらだんだん自分の授業を固めていき、生徒も次第に聞いてくれるようになっていきました。

生徒指導に関して、先生は一枚岩で、団結して取り組んでいました。私も1週間の半分くらいは夜まで学校に残り、生徒の事情を聞く毎日でした。先生一丸となって生徒に対峙していくという姿勢にブレがなく、生徒も次第に心を開いてくれ、生徒も最後は信頼してくれた気がします。指導法が至らなくとも、気持ち自体は伝わるんだということを学びました。

次に、もう今はないですが永福高校に着任します。生徒の実態は最初よりも良かったのですが、正直教員陣が子供のために働く集団ではありませんでした。きちんと生徒に向き合ってあげていない教師が多すぎたのです。生徒に問題行動が起きても、本当に解決しようと取り組む人が少なく、その結果生徒も教員に本当のことを言ってくれない。そんな状況でした。

自分は生徒にきちんと向き合おうと取り組みましたが、教員集団を変えられなかったということがすごくトラウマとして残っています。当時、私は「周りはなぜそんな状況なのだ」とぶつかり、結果名指しで批判されることもありました。

今振り返ると、完全に若気の至りでした。本来ならば、一人一人の良さを見て、上手くやり方を変え、上手くまとめていくべきところ。特に今日は、多様性の中からそれぞれの良さを引き出し、新しい知や価値につなげていくリーダーシップが求められます。ただ周りの尻をたたいて、強制していくやり方では通用しないということに、当時は気づけていませんでした。

一教員としてのできることの限界も感じ、「自分で変えられないなら管理職になろう」と、37歳で管理職(教頭)試験を受け、合格し教頭になりました。

教頭の辞令をもらうまでの2年間は、1年永福高校に残り、もう1年は同じ学区内の夜間の定時制高校にいったのですが、そこには前の学校を辞めた生徒たちがたくさんいて、私は前任校で生徒指導部長だったので「こいつのせいで前の高校を辞めさせられた」と思われており、それは大変でした!近くを通るとわざと「どけ!」と怒鳴られたり、最初の授業からわざとらしく寝たふりをされたり。バドミントンが強い子から、「俺に勝てたら先生って呼んでやるよ」と決闘を申し込まれたこともありました!無事勝利しましたが。

地道に、真摯に生徒に向き合っていくうちに、「他はあまり聞かないけど、武内先生の授業は聞いているよな」という生徒が増えていきました。これは大いに、自分の信じる「生徒を信じること」の意義を再確認させてくれました。

その後、伊豆大島の高校の教頭や、西高校の副校長、学校経営センター(行政機関)を経て、翔陽高校の校長をしていたとき、学校経営センターで関わったことのある日比谷高校の校長への辞令が下りました。これはショックでした。翔陽高校の校長を2年しかやっていなかったこともありましたが、日比谷高校の校長というのは、なんだか荷が重そうだというのが主な理由でした。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

西高校時代には、生徒に頼まれて、顔面白塗りにして運動会で走ったこともあります。

校長に着任して、学校経営の改革に取り組みました。日比谷高校は都立校、公立高校ですので、先生の異動があります。そのため、「日比谷生にとっての授業のクオリティ」を保つことが課題でした。質の高い授業を安定的に生徒に提供するには、「○○先生の授業」ではなく、「日比谷の英語」「日比谷の数学」にする必要があったのです。同じ科目を複数の先生が教える場合、授業のカリキュラムを統一し、定期試験も統一。また授業内での生徒と生徒、生徒と先生のやりとり、対話を重視するよう進めました。また教科主任室で議論して、自学自習の指針を示したり、模試の成績を全教員が把握できるようにしたり、学年集会で模試を返却するなど、学年の連携を強めました。

他には、海外へのきっかけを増やしました。SSH(Super Science High School)のボストン、ハワイの研修に同行した際、留学生の圧倒的多数が韓国、中国、インドの学生で、かつものすごい量の勉強をしている姿に衝撃を受けたのです。日本人学生は1%くらいしかおらず、日本はこのままではダメなのではないかと強い焦りを覚えたことを覚えています。そこで、世界とのつながりの中で日本を感じてもらいたいと、新たに海外研修を設計しました。食料問題について探求学習をし、海外の大学や国連本部に出かけていく研修です。他にも韓国、ニュージーランドの高校と姉妹校協定を結びました。かなり大変でしたが、間違っていなかったと感じています。この中ですごいと感じたのは、この新しい研修については、話を聞きつけた生徒が自ら進んで手を挙げ、準備に関わって進めていったことです。説明会に100人以上の生徒を勝手に集めていましたね。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

海外研修に同行した際の一枚。臨海合宿や修学旅行にも同行しました。

こういった学校経営に並行して、生徒と向き合うということにも取り組んでいました。最初の1年、朝はどの先生、生徒よりも早く登校し、星陵像の前で全員に挨拶しました。校長室は基本的に開放していて誰でも受け入れ、放課後は部活の様子を見たり、行事の様子を見たり、とにかく生徒の様子を把握することに努めていました。ずっと見ていると、だんだんと一人一人がわかってくるものです。この子はいつも遅れてくるなとか、話しかけてくれるなとか。3年生になるまでには、8割の生徒の顔と名前は覚えていました。覚えるたびに、名簿を塗りつぶしていくのがひそかな喜びでした。顧問をしていたバドミントン部に至っては、迷惑にもファーストネームで呼んでいました(笑)

そうやって一人一人見ていくと、名門校と言われる高校の生徒といえど、普通の高校生で、色々なことに落ち込んだり、喜んだりします。ただ、力があり、自分で考える力があり、思いやる力があるなと感じました。それをちょっと支えるだけで、ものすごく伸びていくんだということを学ばせてもらいました。

昨年度末に日比谷高校の校長を退任し、今は私立白梅学園高校の校長に着任しています。「日比谷ロス」になるかと思いましたが、意外と忙しくやらせてもらっています。やっていることは、やはり授業や放課後など生徒の見守り。その中で感じるのは、まだまだ知識伝達式の授業が多いということです。生徒の対話がある授業にしたいなと考えていて、徐々に増えていっているなという実感があります。バドミントン部の顧問も変わらずやっていますよ。校長室も開放していて、最近来てくれる生徒がだんだん増えてきました。色々な生徒がいますが、全員が主体的に学べるような学校にしていきたいと思っています。

ーーなぜ、そんなにエネルギーをもって頑張れるのでしょうか。

結局教員は、生徒に対する教育的な愛情がすべてだ、ということに若いころに気づいたからではないでしょうか。気持ちが折れそうになったときは、いくつもあります。自分が通用しなかったり、思いが伝わらなかったり、やろうとしたことが伝わらなかったり。そういう時は、一人でゆっくり考え、「少しでも事態が変わったのであれば、何もしなかったよりいいではないか」と開き直り、半歩か一歩、自分の中で前進したと思えるポイントを見つけ、それに納得して取り組む。それがどんなに小さな一歩でも、幸せとか楽しみを見つけ、自分がつぶれないようにする、というスタンスはずっと持っています。

私の座右の銘は、「たとえ世界の終わりが明日来ようとも、私は今日リンゴの木を植える」です。これは諸説ありますがオルゲ・ゲオルギュ=デジもしくはルターの言葉といわれており、この言葉は、私の指針となってくれています。

まあ、あまりにも生徒に向き合い続けて来たので、生徒からも教員からも家族からも色々な意味で少々「変わっている」と言われることは多いですよ(笑)

ーー将来の夢はありますか?

これまでは自分の理想の学校をつくることにまい進してきましたが、学校経営についてこれまで取り組んできた経験や知識を活かし、目指すところが共通している学校のネットワークを作っていき、より良い教育を考える仕組みを作り、生徒に還元していきたいなと最近考えています。

ーーこれからの人生をどのようなものにしたいか、教えてください。

今の学校とは3年契約なので、その後はどうするか分かりませんし、まだ決めていません。先ほども言いましたが、自分の学校の生徒に限らない広い視野を持って、ネットワークを築いていけたらなと思っています。

ーー武内先生にとって、大学、人生とは?

大学とは、はじめ腐っていた自分は偉そうに言えないですが、自分の世界が広がる場所ではないでしょうか。いろんな人に出会い、見える世界が広がっていく場所だと思います。高校までの視野と比べて圧倒的に広がりがあるなと感じます。なので、行けるのであれば行った方がいい、とこれまで生徒には言っています。

人生とは、「人類貢献」だと信じています。

自分の持てる資質、能力を発揮して自己実現を果たす。それを他者のために役立てていく。自分が他者に生かされていることに喜びを感じるとともに、それを他の人に役立てていく。そのために人生はあるのだと、考えていますし、生徒には伝えてきました。

この記事を読んで、みなさんはどう感じましたか。

大学受験での挫折や、教員生活での苦悩を経て、自分と向き合うこと、そして「結局教員は、生徒に対する教育的な愛情がすべてだ」という信念を得た武内先生は、これまで多数の学校を経験しながら、生徒と真摯に向き合い続けてきました。また今も夢は尽きることなく、これからも寄りより学校教育を目指して、ネットワークを広げていくことを考えています。

みなさんは、なぜ大学に行くのでしょうか?

武内先生が影響を受けた本:最近ですと「FACTFULNESS」「シン・二ホン」です!