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ーーーーこれまで私がやりたいからやったというより、「何か」に突き動かされてきたんですよねーーーー

ゲストプロフィール
遠藤由美子(エンドウユミコ)
福島県三島町出身。ベビーブームの頃に生まれ、山寺で育つ。会津若松の高校、短期大学を経て20歳の時に見合い結婚で横浜へ行く。結婚生活の傍仏教に関するライターをする。38歳の時に離婚し、地元に戻り工芸品であるからむしの展覧会を開催したり、奥会津書房の創設や、ふくしま本の森を創設する。
ーーどのような幼少期でしたか。

生まれは福島会津地方の三島というところのお寺でした。3つ下の弟が一人います。
両親は恋愛結婚だったそうですが、父親は兵隊さんだったため、戦地に行く前の日に写真を撮るだけですがちょっとした結婚式を行っただけで父は戦地に行き、母は寺で父の帰りを待っていたそうです。結局父が帰ってきたのはそこから12年後のことでした。母は父の顔をもう忘れていたらしいです(笑)その後私が生まれました。ちょうどベビーブームあたりの時期です。
乳飲み子の頃、母は小学校の教師をしていて授乳できず、飼っていたヤギの乳を父が絞って私に飲ませていたそうですが、戦後の混乱期で村の子どもたちを集めて幼稚園もしていましたから、ある時、忙しくて私をヤギのそばに置いたまま、戻ってみると私は自分でヤギのおっぱいにしがみついて飲んでいたそうです。それからは、おっぱいを欲しがるとヤギのそばに転がしておいたそうです。消毒も何もせず、しばらくは母にも内緒だったようです。おかげで、雑菌と共に、こんなに丈夫に育ちました(笑)。
幼少期は遊んでばかりでした。特に水遊びが好きで、水瓶に落ちるか落ちないかのスレスレまで顔を近づけるという遊びをよくやっていました。今考えればとても危険なことで、こっぴどく怒られていましたね。
また父は寺を幼稚園として多くの子供を集めていたため、家である寺には常に多くの人がいました。さらに戦後という時代もあり、浮浪者のような人がいることも多々ありました。そのため、高校になるまでプライベートな空間というものを知らずに育っていきました。毎日知らない人が家にいるのが普通でした。当時はその状況を不思議だなと思いながらも、楽しいなとも思っていました。
このような環境で育ったせいか、自分と他者との境界がとても薄くなっているように思います。そのため、私は私、あなたはあなたと自分と他者をはっきり切り分けるということが良くも悪くもできなくなりました。この問題は踏み込むべきだと思ったことは、例え相手に怒られても、踏み込んでしまいます。
ーー学生時代はどうされましたか。

中学卒業後、当時は3割ほどの人が就職していきました。学生服の上にブカブカの似合わないコートを着た友人達が、就職のために汽車に乗って遠くに行ってしまうのをみんなで涙しながら見送っていましたね。
幼稚園の頃から兄弟のように育った友人達とは今でも毎年会う間柄になっています。
私は母が行っていた会津女子高校(現葵高校)に、叔父の家に下宿して通いました。その後は、姉のように慕っていた従姉妹が通っていた郡山の短大に行き、絵やデザインの勉強をしていました。
卒業後はお見合いをしてすぐに結婚をしました。私も当時は幼く、お見合いしたら結婚しなくてはいけないものだと思っていました。短大を出てすぐなので20歳くらいのことです。
ーー結婚してからはどうでしたか。

あまり考えずに結婚を決めてしまったので、当初から別世界の違和感を持って過ごしていました。結局結婚して18年後に離婚するのですが、それまでの間は違和感を抱えながら下を向いて過ごしていました。結婚したからには離婚なんてしてはいけない、という倫理観のようなものも持っていたので、この18年間は本来の自分ではないと思いながらも我慢して生きていました。日中は暇なのでひたすら本を読んでいましたね。
離婚してみると、本当に開放感でいっぱいでした。風はこんな気持ちのいいものなのか!と素っ裸になったかのような気持ちでした(笑)
結婚生活中からフリーライターをやっていました。父と親交があったお寺のご住職が総持寺の出版部長をしておられたのがきっかけです。なので仏教関係が主な仕事でしたね。
仕事はとても楽しかったです。例えば観音巡礼ビデオのシナリオナレーションを書くというものがありました。始める前は、あまりに渋すぎるな、、と思いながらも、やってみるととても面白かったです。取材クルーとキャラバンしながら三十三観音を巡って撮影し、毎晩その日に撮った100カット以上の映像素材をメモで記憶し、順番を再開する作業も面白かった。その道中の中で、仏教や哲学、歴史関係の色々な著名な方に直接お話を伺うことができたことは、とても貴重な経験でした。
また、特に印象的だった仕事は比叡山延暦寺を訪れた時のことです。「比叡山時報」という比叡山が出版している新聞に記事を書くために、私は月に一回比叡山を訪れていました。私は山寺で過ごすのが好きで、とてもすっきりとした気分になるのですが、比叡山ではどこにいても重い感じがして落ち込んだ気分になります。比叡山は戦いの地ですからね。
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比叡山には七不思議があり、ある時それを取材しようと思いそのうちの一つである「もや舟伝説」を扱ってみることにしました。この伝説は霧の夜、靄とともに死んだはずの女性達が乗った舟が、比叡山で修行している夫や子供を一眼見ようとやってくるというものです。比叡山の片隅にその舟がやってくると言われている場所があるので、私はそこに行ってみることにしました。私は一人で山奥へと向かい、誰ともすれ違うことなくテクテクと歩いていきました。ようやく近くなってきた杉林に囲まれたところまで行くと、なぜか背筋がざわざわとしてとても嫌な感じがしました。お堂が見えてきて、あそこに舟が来るのだと確認はできたのですが、そこからは一歩も進むことができませんでした。なぜか足がすくんで動かなかったのです。お堂に向かってお祈りをして、足早にその場を去りました。帰りは山道を駆け上って駆け上って、必死に走りました。あとで話を聞くと、そこは魔界であり一年に一回、決められた人が掃除をすることだけが許されているのだというのです。あそこは魔所である。しかしそこに魔物がいるのではなく、我々が魔物のなのだ、と。私はそこが恐ろしい場所だと思っていましたが、そうではなく、魔を拒むあまりに聖なる場所だということでした。
一方結婚生活はというと、18年下を向いて生きてきて、今の私は本当の私ではない。どこかで踏ん切りをつけなければということで離婚に踏み切りました。
ーー離婚してからはどうされましたか。

離婚してからは故郷に戻り、会津の昭和村という場所で働いていました。昭和村のからむし織りというものにすごく魅力を感じていたところ、手伝ってくれないか、という声をかけてくださり、その保存協会の事務作業を行なっていました。しかし私は事務作業がめっぽう苦手なんですよね(笑)他の人も困っていたと思いますが(笑)1年も経たないうちに、私は事務作業じゃなくて、もっとからむしそのものに携わりたいと思い勝手にプロジェクトを始めたりしていました。
銀座でからむしの個展をやろうと思いました。知り合いが購入を約束してくれて、会場費用を確保できました。当初は村の担当部署から協力を得ることができませんでしたが、お金を工面することができたため強引に許可を取り付けなんとかやらせてもらうことができました。
その後も何度か毎年展示会を続けました。
私がこんなことをやっているのは、自分がやりたいからというよりは、からむしが求めている、そんな感覚でした。一村一品のようなイベントに食料品等と一緒に出すようなものではからむしはない、それとは一線を画しており、からむし単独で展示をしてくれ。そんなふうにからむしが私に言っているように思いました。
このような経験を経て、地域特有の風土また会津地域に共通する風土というものに興味を持つようになりました。昭和村にしかない風土、三島にしかない風土。しかし、会津の根底にある共通した風土は確かにあり、それらの記録を残すことが必要だと感じるようになります。そうして奥会津書房を作るに至ります。
奥会津書房を作った時もからむし同様、最初は協力を全然得られず収入や資金面に問題はありましたが、住まいは寺があるし食べ物にもこの地域であれば困らないので、生きてはいけるな、そういう確信があったため、お金のことはあまり考えずに始めましたが、当初から物心両面で支えて下さる師がおり、今もご教示を頂いています。
震災後、岩手県遠野文化研究センター(赤坂憲雄所長)で始まった三陸文化復興プロジェクトで行われてきた20万冊の献本活動が終息した2015年、拠点としていた工場の返却期限を目前にして、約4万冊の本が行き場を失いかけているということを、当時、福島県立博物館の館長も務めておられた民俗学者の赤坂憲雄氏からお聞きしました。遠野の現場で本たちを目にした時、「ふくしまでお預かりします」と、後先も考えずに言ってしまいました。というより、本たちに言わされたという気がしました。その時の、これまでご苦労されてきたスタッフの方々の安堵された笑顔を忘れることができません。その方々の献本活動の意志を引き継ぎながら新たな活用の場を作ろうと「ふくしま本の森構想」が突然始まったのです。
そうは言っても現実的にじゃあこの本をどうするのかという問題があります。知人を頼ってみたり、行政に相談に行ったりかれこれ1ヶ月ほど奔走しましたが、全然見つかりませんでした。そのようにして困りあぐねていた時、近所の道の駅で知り合いにたまたま会いました。なんの気無しに、今大量の本が行き場を失っているという話をすると、あっさりちょうど空いている場所があると言われました。こんな近くにあったなんてという感じですよね(笑)そうして「ふくしま本の森」という図書館を会津坂下町の廃園となった幼稚園に開設することになりました。ボランティアの方の支えによって運営されています。

ここまでの人生で分かったことは、私たちは何らかの使命を持って生まれてきているということ。私の使命は愚直に何かを記録すること、それも楽しくね。その使命が必要とされている間は生かされているのだと思うようになりました。
また、どんなことも私一人では絶対にできません。同じ方向を向いている多くの仲間が集まれば、行動が生まれます。
私はなんの能力もなく凡庸な人間なのですが、そうだからこそ私ができないことを補ってくれる人が集まってくれて、助けてくれるんです。凡庸なのも一つの力なのかもしれませんね。私はとても人に恵まれていました。
ーーこれまでの人生でやってよかったこと、やっておけばよかったことは何かありますか。

やってよかったことは全部です(笑)やらないで後悔するよりはやって後悔しようと思ってやってきましたが、結果的に後悔は何もなかったです。全部やってきてよかった。失敗もたくさんありましたが、こうしたら失敗するんだと学べたので後悔はないですね。
やっておけばよかったことは親孝行ですね。もっとやっておけばよかった。いなくなってからやっぱりそう思ってしまいますね。
ーー若者に向けて何かアドバイスはありますか。
私からアドバイスなんてとてもできません!いい加減な人間ですから(笑)
アドバイスではなくただ唯一お願いするとすれば、自ら死を選ぶことはしないでほしい。生きててくれればいい、生きていてくれるだけで十分です。どうしても辛いことがあったら、私の山寺に来てください。楽しく生きていてくれればそれが最も尊いことです。
ーー将来の夢は何かありますか。
そうですね、さわやかにあちらの国に行きたいと言うことですかね。これは別に死にたいということではなく、向こうに行った時に恥ずかしくない状態で行きたいなと言うことです。まだ天国に行けてないと言うことは、もう少しクリーニングしてね、ということでしょうか(笑)
ーー最後に、遠藤さんにとって人生とは?
「人」です。色んな人に出会って、色んな人の価値観に触れ、色んな人の支えによってここまでやってきました。多くの大切な人たちに出会うことができました。人によって私の人生は埋まっています。
この記事を読んで皆さんはどう思いましたか。遠藤さんは自分がやりたいことをやったのではなく、からむしや本などに導かれたことを今まででやってきたと言います。
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