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ーーーー東大、パナソニック、渡米、起業、失業、社長。生涯エンジニアとして今でも活動される山田さんの人生とは。ーーーー

ゲストプロフィール
山田純(ヤマダジュン)
福島県出身。1978年に東京大学工学部電子工学科を卒業。その後松下通信工業(現パナソニック)に入社し、今の携帯電話の先駆けとなる自動車電話といった通信機器の設計、開発に携わった。1995年に退社し、アメリカでベンチャーに参画するも、3年ほどで事業破綻し、失業。1998年にアメリカの通信技術会社クアルコムに入社。2005年クアルコムジャパンの代表取締役社長、2008年に代表取締役会長に就任。2012年に代表職を退いて、現在は地元福島に戻り再生可能エネルギー関連の事業やワイン造り等を行っている。
ーー少年時代はどのように過ごされましたか?

とにかく無線にハマっていた少年時代
父親は銀行員、母親は専業主婦、といったいわゆる普通の家庭で生まれ、一人っ子として育ちました。とはいえ父親は途中で銀行を辞めベンチャー企業を始めるような人でした。「やりたいと思ったことはやってみる」という考え方は父から影響を受けているのかもしれません。
子供のころは「無線少年」でした。エレクトロニクスには小さなころから興味があり、ラジオやアマチュア無線を作って遊んでいました。これというきっかけもないのですがいつのまにか好きになっており、それが仕事にもつながりましたね。
ーー高校生活の思い出はありますか?

今でも付き合いのある2人の友人に出会えたことですね。そのうちの一人は親が医者だったのですが、私が風邪をひいたときに、彼は親の見様見真似で私に治療を施してくれたりしました(笑)。そんな彼は医学部を目指していたのですが、何浪しても入れなかったんです。結局医者になることはあきらめたのですが、その後社会に出て事業家になって僕ら3人の中で一番の成功を収めたのを見ると、世の中何が起きるかわからないものだなと思いましたね。
いずれにしても今でもたまに会って自由気ままに話せる友人は本当に大きな存在ですね。三人とも進路は全く違ったのですが、そこがかえって良かったような気がします。
ーーどのような大学生活を送っていましたか?

二年間の教養課程を終えて、3年からは電気電子工学科という学科を専攻しました。そこでは毎週、グループで実験をさせられるのですが、その実験グループのメンバーとは仲良くなりました。
実験で出される課題は半日かかるほどたくさんやることがあったのですが、僕たちはいつも「少しでも早く実験を終わらせて、ビアホールに行くぞ!」という目標を立てていました(笑)。ですから、「俺はこれをやるから、お前はレポートを書いてくれ」というような感じでみんなで緻密に作業を分担して、より効率的に実験ができるようにしました。
この作戦はいいことばかりでした。素早くやったからといって実験の精度が落ちるというわけでもなかったし、なにより目標を立ててそこに向かって一生懸命頑張ることは気持ちのいいことだと思いましたね。チームの結束力も強くなったし。みなさんもどうですか?実験に限らずこのやり方はお勧めしますよ!
ーーー大学生活で苦労されたことはありますか?
あります。実は上京してから大学三年になる直前まで、体調がすぐれなかったんです。朝起きた時からすっきりせず、何となく体がだるい状態が続いたんですよ。医者に見てもらったこともありましたが、原因はわかりませんでした。この時期は苦しかったですね。
しかしある日突然この不調の理由がわかったんです。それは自分が首都圏の人との会話のペースに違和感を感じていたことからくる精神的な苦痛だったのです。私の地元福島では相手の言っていることをまず聞いてそれに対する返答を考えた後に発言するというように、会話のペースはゆっくりなのですが、東京の人は相手の話を聞く前にどう返すか決めているんです。だから会話のテンポが速いんです。
このことに気づいて、かなり気持ちが楽になりました。「相手は私の話をそこまで真面目に聞いていない。だから自分も相手の話に真面目になりすぎる必要はない。」と思えたんです。それ以降、体調も回復しました。
ーーー松下通信工業ではどのようなお仕事をされたのですか?

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私が入社したころはまだ今の携帯電話のようなものはなかったのですが、今後そうした技術が出てくるだろうと考えており、通信技術の開発や設計に携わる仕事をしていました。
ある時、ビルの中では社内での内線電話のように使えて、ビルの外では私用の携帯電話として使えるような通信システムを考案しました。私はこの技術を日本に広めたいと上司に申し出たのですが、そのような技術は役所やNTTが注意を払っていないし、もし必要ならば役所が発注してくるから今はやらなくていいと一蹴されました。とはいえこの上司の言葉は建前で、こうした正式な許可が下りていないプロジェクトも当時のパナソニックでは水面下で進めることを認められたんです。
またこの技術をアメリカの会社に営業しに行ったりもしました。とある会社がこの技術を気に入ってくれて買ってもよいといってくれました。この意向を日本にいる上司に伝えるために、社長の署名入りの手紙を書いてくれと頼んだところ、本当に書いてくれたんですよね。これには驚きました。また実際に開発を進めていくと当初予定していたよりも一年ほど長く時間がかかってのですが、こうしたトラブルも受け入れてくれる余裕がその米国企業にはありました。
今振り返ると当時のパナソニックや米国企業には、社員の挑戦に対して寛容な文化があり、私は恵まれていましたね。最近の会社は厳しい管理をすることが一般的になってはいますが、皆さんも将来挑戦ができる会社に身を置いてほしいです。

ーーなぜクアルコムへの入社を決めたのですか?
アメリカのフロンティアスピリッツに惹かれてパナソニックを辞めて、アメリカでベンチャー企業に参画したのですが、三年ほどでつぶれてしまったんです。それで失業者になってしまいハローワークで職探しをしていた時に知人にクアルコムを紹介されました。当時クアルコムは日本法人をつくろうとしていたので、その立ち上げメンバーになりました。
私はそのころのクアルコムにあまり良いイメージを持っていなかったのですが、実際に働いてみるとアメリカのエンジニアの開発に対する姿勢、視野の広さに驚きました。彼らは会社全体の中の「開発」という一分野を担当しているだけなのですが、仕事をしながらも「なぜこれを作るのか」「これを使うとお客さんはどういった効用を得るのか」「どうやって会社の利益を上げるのか」といった自分の専門分野以外のことにも気を配っていました。こうした姿勢はエンジニア(技術者)として当然であり、作ることに特化したテクニシャン(技能者)とは違うと考えているんです。この点には非常に感心したと同時に、日本は遅れているなと痛感もしました。
日本の技術者は自分の専門分野のみをしっかりやることにとどまっているパターンが多いんです。そもそも日本は学校教育の時点で文系理系に分けますよね、それで視野が狭くなってしまっているのかもしれません。
ーー社長業とはどのようなものなんですか?

実はこの質問が一番困るんです(笑)
わたしはおそらく皆さんが想像するような、情熱やリーダーシップで会社を引っ張るような社長ではありませんでしたし、社長として組織を守る、従業員を導くといった概念もありません。一方で自分が面白いと思ったことにはなんらかの意味があると自負しているので、それを仲間と一緒にやるという感覚ですね。ですから、従業員にも会社があなたを守ってくれるわけではないということは伝えていますし、つまらなかったら辞めてもいいともいっています。
ーー今はどのようなことをされているんですか?
故郷の福島に戻って仕事をしています。きっかけは東日本大震災でした。福島第一原発の事故は、元をたどればエネルギー問題が絡んでいるので、新しい再生可能エネルギーを作ってみようと思って活動を始めました。また偶然にも発電所の近くにはいい畑があったので、そこをブドウ畑にして、「アイプロダクツ」という会社を作ってワインづくりにも取り組んでいます。

地元福島での再生可能エネルギー事業
ーーこの記事は大学生向けでもありますので、大学生に対してアドバイスなどがあればよろしくお願いします。

ワイン造りにも取り組んでいらっしゃいます。
大学という場所は教授から何かを教えてもらうことは可能だし、それも大切なことなのですが、ぜひ自分が突き詰めたいもの、調べたいもの、解明したいものを見つけてそれに向かって主体的に取り組んでほしいと思います。受け身ばかりではよくないです。
また私が大学生活においてよかったと思っていることとして、今でも付き合える友達ができたということがあります。私の場合は実験なのですが、1つのことに対して友人と協力して取り組めたのは本当に良い経験でした。
反対にやっておけばよかったなと思うことは、もっと異なる時間の使い方をしておけばよかったということです。私は当時早く技術者として社会に出たいと思っていたので、大学院にもいかず、学部四年間で卒業しました。しかし今振り返ると、休学したりして大学とは異なる生活をしてみてもよかったなと思っています。社会人になると、まとまった時間を取って見聞を広めることはなかなかできませんからね。
ーー最後に山田さんにとって人生とは。
ん~、その質問はむしろ皆さんに対してしたいですね。皆さんは私と違って若いので、先が長いですよね。未来を見通す直感は先が長い人のほうが正しいものです。だってこの先も生きていくんだから。ですから無意識のうちに未来に対する直感が働いていると思いますよ。ですから皆さんが今後生きていく中でこの質問を自分自身に問いかけてみてください。

オンラインでインタビューを受けていただきました!
この記事を読んで、みなさんはどう思いましたか?
筆者は、山田さんの人生には一貫して「新しいことに対して即座に挑戦するエンジニア精神」があると思いました。通信技術のアメリカへの売り込み、ベンチャーの立ち上げ、クアルコムでの社長業、エネルギー開発。信じられないほどのハードワーカーだと思いました。これほどの挑戦ができた理由は、大学時代に苦しんだ適応障害を克服し、何事もあまりまじめに考えすぎなくてもいいと思えたことが影響しているとおっしゃっていました。
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