スポンサーリンク

ーーーーテレビ番組のディレクターから農業に転職した理由とはーーーー

ゲストプロフィール

小野淳(オノアツシ)
北海道函館市で生まれ、2歳の時に神奈川県横須賀市に引っ越す。県立横須賀高校卒業後、日本大学文理学部心理学科に進学。1998年の卒業後はテレビ番組の制作会社に就職。その後は農業法人などで働き、2014年株式会社農天気、2016年にNPO法人くにたち農園の会を創設。東京都国立市を拠点に幅広い農サービスを提供、子育て支援やゲストハウス運営など観光事業も展開する。

ーー大学入学までを教えてください

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

1974年に函館で生まれ、その後まもなく横須賀に引っ越してきました。幼少期はインドア派で絵を描いたり映画を見たりするのが好きでした。兄が一人いますが、その兄が絵が上手で勉強もでき劣等感がありました。私自身は学校や受験勉強があまり好きではなかったのですが。当時はベビーブーム時代で今以上に優秀な大学に行くことが重視されていたこともり、親の影響もあって勉強第一という小中学生時代を送りました。高校は地元の公立進学校に行きましたが、部活をやって映画を見たりラジオを聴いたりという生活でした。浪人時代は一生懸命勉強しなきゃダメだったんだけど、やはりまた映画や本に夢中で受験勉強のことが頭に入ってこない。結局一浪して日本大学に進学しました。結果は不本意で入学式にも行く気はしませんでした(笑)。

ーー大学時代のことについて教えてください

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

ボスニアでの卒業旅行、紛争後残された塹壕で寝泊まりなどしました。

大学時代には探検部に所属していました。自分は進学面では敗北感があったのでゲームチェンジという意味も込めて。当時のいわゆるイケてる学生はインターネット、証券取引などを始めていましたが、自分には真似できない思ったので別の方向で振り切ろうと、自分の殻を破り世界を知りたかったからでもあります。探検部の仲間はちょっと常識を外れた人間が多くて(笑)酒に酔った勢いで深夜に河原で全裸で追いかけっこしたり。。。洞窟で4日間行方不明になって死にかけた友人もいました。

本当にいろんなところに行きました。大学2年の春休みにはインドに行き、その後もアマゾンのジャングルとか、ギアナ高地など秘境と呼ばれる地域にも足を運びました。98年の卒業旅行では崩壊後間もないユーゴスラビアに行きました。危険なところ→ユーゴスラヴィア、行くしかないでしょ、という感じです。本屋にあったユーゴスラビア語辞典だけを持って一人で行きました。

こんな学生生活でしたが、就活は真面目に取り組みました。探検部に入ったことで戦場ジャーナリストに興味を持つようになり、マスコミを中心に志望していました。ですがなかなか内定がもらえず。その一方で一緒に就活していた物静かな東大生などはいとも簡単に大手新聞社などの内定を取っていくんです。20社くらい全滅で結局、大学4年の9月にアマゾンギアナ高地探険の関係でお世話になったとある番組制作会社に就職が決まりました。

ーーテレビ制作ではどのようなことをなさっていましたか。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

社会人5年目のTVディレクター時代。南アフリカにて。

制作会社でも、大学の探険部時代のようなことをやりたいと考えていて、実際に入社早々に大型番組企画で学生時代に続いてアマゾンギアナ高地に1か月ほどロケに連れて行ってもらいました。ただ、当時は今でいうところのパワハラもブラック労働も当たり前の業界でしたから寝る間も惜しんで働いていました。またそういう職場環境が嫌いじゃなかったんですよ(笑)入社したころの目標は、世界的に認められるようなドキュメンタリー番組を作るということでしたが、ワイドショーや教育番組なども作っていました。当時かかわっていた番組で今でも続いているのが日本テレビの「所さんの目がテン!」です。他にはNHK教育(今のeテレ)「真剣10代しゃべり場」という10代の少年たちの討論番組が特に印象に残っていますね。彼らの生き方や考え方、家庭環境など根掘り葉掘り聞き、面白いことを引き出すのが私の役割でした。いじめ、性行為など話しづらいテーマにも突っ込んで率直に話してもらうのが狙いの番組でした。今ではちょっと放送が難しいような内容も全国放送に載せていたので、出演者たちも想像以上に世間や周囲の目にさらされることになり、苦労も多かったと思います。当時はこちらも真剣勝負の作品作りと割り切っていましたが、振り返ると作り手のエゴもかなりあったなと思います。番組制作を通して、自分の悩みや少なからずあったコンプレックスなどがバカバカしくなるぐらい、様々な背景や苦悩を抱えながらも生きて発言しようという彼らの姿は感動的でした。番組作りを通して自分が子どもの頃から抱えてきた様々な心のしこりみたいなものがいつの間にか消えていましたね。でもこれは実はクリエイターとしては微妙なことでもあるんです。コンプレックスみたいな、呪いみたいなものにとらわれ続けながら凄みのある作品をつくるクリエーターも多いので、呪いが解けると身を削ってまで作品を作り続けるようなエネルギーは保ちにくくなります。

本当に仕事漬けの日々でした。番組作りの中で奥アマゾンのヤノマミと呼ばれる人々の言語やイヌイットの言語の翻訳など無茶なことにも取り組みました。ヤノマミの言葉なんか世界中に4人ぐらいしか翻訳できる人いないんです。しかもヤノマミ語→スペイン語です。(笑)当時はインターネットも今のようにスムーズではなく、もちろん現地にはありません。国際電話を何度も繋いで翻訳をしていました。また、環境問題にスポットを当てた番組制作もしていたのですが、日本でよく耳にするような森林破壊や水資源の枯渇といった環境問題の現場は、事態が深刻に進みすぎていてもうほとんど修復不可能なんですよね。それでも現場を取材し正味23分の番組時間内で状況説明と改善に取り組んでいる人たち。そしてその成果を説明しきらなければならない。しかし、そもそも新宿で暮らし六本木で仕事をして思いっきり消費的な都市生活を送っている私が、自然環境の本質に迫ることなんてできるのか?と思いました。農作物一つも満足に育てられない自分が環境問題を語る資格なんてあるのかって考えてしまったんです。たとえば海洋学をちょっと学んだ程度で海で泳いだことはない、というような人が海の環境や資源の適切な活用について説得力を持って語れるのかという感じです。こんな生活に終止符を打とうと思い、転職し農業をやるしかないと思うようになったんです。

スポンサーリンク

ーー1度目の転職後はどのような活動をなさっていましたか。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

 30歳で農業を始めたばかりのころの写真です

2005年に有機農業を行う農業法人に転職しました。これまたハードな現場で(笑)。忙しいときは朝4時から夜9時まで働き詰めで、自分も寝不足で交通事故をおこしそうになったことは一度や二度ではありません。妻も子もいて年収も240万円ほど。そこまで低賃金で働いても会社は赤字だったんです。これは想像以上に農業の現場は過激で面白いぞと思いました(笑)。また普段は海女をやっているおばちゃんがパートで来ていたりするんですがこの話がまた面白い。そういう農村、漁村ならではの面白さって都市で暮らしていると全く気付かないなと実感しました。結局、会社のありかたと折り合いがどうしてもつかず、3年半ほどで退職します。その時は2人目の子どもが生まれたばかりでしたが、ハローワークに通う失業者となりました。そのときに農業をはじめ地方で起きているようなことを都心部に伝えられるようなことを実業としてできないかと考えて、東京で農産物の流通やブランディングなど面白い取り組みをしている農業法人に就職することができました。それが東京の国立市に来て都市農業と関わるきっかけです。

ーー2度目の転職後はどのような活動をなさっていましたか。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

親子向け農体験の様子です

国立市の農業法人では、全国の農家からユニークな農産物を仕入れて飲食店などに卸す商品部の仕事をしていました。2009年には「セレブ向け市民農園」を立ち上げるというミッションに取り組んで2010年に開園しました。ロンドンブーツ1号2号の淳さんとかつんく♂さんとか畑を借りてくださって、「嵐にしやがれ」に出演したり、キリンのテレビCMの撮影現場になったりと注目もされました。あとは農園が都心で暮らすファミリーにとって週末の充実した家族団らんの場となったんです。都市で忙しく暮らす人でも農的な体験が日常的にできるサービスの可能性を感じました。その経験が、今の株式会社とNPOの事業のベースとなっています。2014年に独立して株式会社農天気という農体験サービスの提供と都市農業、東京農業を発信する会社を設立しました。家庭菜園番組の制作の監修であったり、農業専門雑誌への連載だったりというメディア事業と、畑で婚活、親子向け野菜の教室みたいな体験事業、それから外国人向けに農園をガイドするツアーなど旅行業にも取り組んでいます。2016年にはNPO法人くにたち農園の会を設立してコミュニティ農園「くにたちはたけんぼ」や田畑とつながる子育て古民家「つちのこや」学生と運営するゲストハウス「ここたまや」、それから2020年には認定こども園「国立富士見台団地 風の子」、畑つきレンタルスペース「畑の家」を開きました。これら5つの拠点を国立市内で運営して、様々な農体験のほか、子育て支援事業にも力を入れています。スタッフも総勢20名を超えるまでになりました。

ーーそのような事業を通してどのようなことを伝えていきたいですか。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

農業っていうのは動植物や細菌を育てて暮らしに役立てる仕事だと自分の中で定義しています。しかし、植物は命令を聞きませんし、人間社会のコミュニケーション、経済・マネーの論理は通用しません。家畜も野菜も改良に改良を重ねてようやく人間にとって扱いやすくなっているだけです。こうした人間の理屈の通じない相手を育てて食べることで我々人類は生き残ってきたのです。なんでも人間にとって「安全安心便利快適」であることを目指している都市において、農的な体験は癒し効果もある一方で、お互いの生き残りをかけた真剣勝負でもあります。東京などの都市で暮らしていると人間関係をうまく保って仕事をしていれば、まっとうに生きていけるように誤解してしまいがちです。しかし、実際にはひとたび天災などで都市が機能を失ったり、農産物を生産できない状況になれば多くの人が生きていけないでしょう。都市の中での成功はある種の幻想です。都市を守られたドームに例えるならば、そのドームの内側の人は外側の環境や資源が豊かであり続けてそれを享受できる仕組みがないと生きていけないということを忘れてしまいがちです。そういう世界のダイナミズムに小さな子どもでも気付けるきっかけを東京の農園でたくさん作っていきたいと思います。

ーー読者に何かアドバイスはありますか?また、今後はどういった活動をなさっていきたいですか。

いまの社会や正しいとされている考え方に批判的になるべきです。そして物事を多面的に、自分自身に対しても批判的に見ておかないと世界は広がりません。自分がやっていることは自己満足に終わってしまいます。また、子どもをもうけ、身近な人との連携をとっておくことはぜひしてほしい。子づくりには動物的なタイムリミットがあるので早いほうがいいと学生さんには強くお勧めしています。学歴が高くキャリア形成に関心が高い人ほど子どもを産むタイミングをあとまわしにしがちです。これはもちろんそういう社会をつくっている私たちの責任なんですが。子育て支援事業などを通して結婚していようがいまいが安心して子どもを産み育てられる社会にしていきたいですね。そして、何か困難に直面したとき、自分はその器ではないなどの理由で簡単にあきらめないほうが良い。リセットボタンは安易に押さないほうが良いです。その物語には思わぬドラマチックな続きがあるかもしれないので。

ーー最後に、小野さんにとって「人生」とは?

人生とは「暇つぶし」だと思っています。例えば草食動物は足元の草を食べて、排せつして寝て、子どもを作って死ぬだけです。しかし人間はなぜか何かを成し遂げなければならにという呪いにとらわれて余計なことばかりしています。本質的にやらなきゃいけないことなんて実はほとんどない、と私は考えています。ゲームをするのも、勉強するのも、暇をつぶすための手段でしょう。仕事観も、時間があってやりたければやればよい、というような感じです。私はすぐ退屈してしまうのでいっぱい仕事をしてしまうだけです。また、つらいと思った時は長い人生で見れば良いスパイスになります。しんどいと思った時ほどラッキーですし、それを楽しめるようになれば良いのだと思います。

オンラインでインタビューを受けていただきました!

この記事を読んで、みなさんはどう感じましたか。

小野さんは大学入学を機にこれまでの自分を変えようと探検部に入り、そのことが就職にも大きく影響しました。また、番組制作会社ではディレクターとして活躍され、その後は農業やまちづくりに関する活動をなさっています。そして、つらいことほど、後の人生に効いてくるとおっしゃいます。困難なことに直面したときに前向きに乗り超える力が必要であるように思います。

▼小野さんの人生や仕事に興味を持ってくださった方は、下のリンクの書籍を是非ご一読ください!▼

「東京農業クリエイターズ」
http://www.nou-tenki.com/tokyonogyocreators/