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ーーーー人生のターニングポイントは、誕生日祝いのメッセージが来たことーーーー

ゲストプロフィール

宮地貴士(ミヤチタカシ)
秋田大学医学部5年。東京都北区出身。大震災をきっかけに医師を志すようになる。大学二年生の時に、NPO法人ロシナンテスの代表の川原さんの医療活動の手伝いとして、スーダンへ行く。そのときの生活や環境に衝撃を覚え、学生団体としお金を集めてザンビアの無医村に診療所を建てる活動をする。

ーー中学時代までを教えてください。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

東京都北区出身です。4人兄弟の2番目に生まれ、父親はバスの運転手、母は専業主婦というごく普通の家庭で生まれ育ちました。親は割と教育熱心な方で、無理に何かをさせようとするわけではないのですが、「こんなものがあるよ」「こんなのどう?」といろいろ情報や機会を提供してくれ、算盤や習字などをやらせてもらいました。

また、幼少期の原体験としては父親が親父の会やPTA、地域ボランティアなどコミュニティの中で活躍する姿を見て、小さい頃から自分もこのようになりたいと思っていました。

医師を志すようになったきっかけは、中学生の時にあった3.11です。幼少期から誰か困っている人のために働きたいと思っていましたが、震災で具体的に困っている被災地の人の姿を見て、その人たちを助ける医者がかっこいいと思い、自分も目指すようになりました。
震災の時には医者以外でも、官僚や原発で働く方など多くの人の活躍がありましたが、自分としては困っている人に直接的に関わることができるという点で、医者になりたいと思いました。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

兄妹4人での写真です。

中学では野球部部長としての活動に、主に力を入れていました。もともとは強い野球部だったのですが、途中で野球部のグラウンドのサイズが半分になってしまうという出来事がありました。それが原因でまともな練習ができなくなり、弱小になってしまいました。

僕はストレス性の嘔吐をしてしまうなど、この出来事に大きな挫折感を感じてしまい、受験勉強にも身が入らず、結局第一志望の高校には落ちてしまいました。高校に入ってからもしばらくは引きずってしまいました。

ーー高校生活はどうでしたか。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

高校でもまた野球部に入り、結果的には良い成績を出すことができて今度は悔いのない部活をすることができました。

高校の時も変わらず医学部を目指していたため勉強をしていたのですが、ある日母がとある塾を紹介してくれました。そこは志学ゼミという塾で、インディアナ大学で言語学の博士号をとった方が、副職のような感じで小さな塾で英語を教えていました。
その先生は解説にのっているような文法などを教えるのではなく、なぜこの文章題が出題されたのか、なぜこのような議論が今なされているのか、などの教養といった部分を教えてくれる方でした。僕はその授業がとても楽しく、背景知識をしっかり身につけ、先生と対等に話せるようになりたい、ということをモチベーションに必死で勉強をして、結果的に英語も得意になりました。また、世界の様々な話を話してもらい、海外に興味も持つようになりました。

大学選びに関しては、受験対策自体は直前まで行っておらず、特にこの大学がいいという拘りはありませんでした。一方で母はいろいろな大学の説明会に行ってくれており、人が良かった、得意な英語や面接が試験の中心というところから秋田大学医学部を第一志望にし、無事合格することができました。

ーー大学時代はどうでしたか。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

スーダンにいくまではずっと部活に打ち込んでいたそうです。

最初はいわゆる大学生っぽい生活をしていました。「先輩とのつながりは大事だ」「過去問を手に入れなくちゃいけない」「先生とつながるにはお酒だ」という刷り込みに自分もかかってしまいました(笑)

しかし、塾の先生の影響で海外に興味を持っていた僕は、カナダの語学プログラムや外務省のアメリカに行くプログラムに参加したりはしていました。ただ、異文化に興味を持っていた自分としては、これらのプログラムは少々物足りなかったです。思ったより刺激や多様性が少なく、現地の人と関わることもできず、「なんだか東京みたいだな」という印象でした。ただ漠然と「海外」というものに憧れており、具体的なテーマを持っていなかったことを少し反省しました。

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大学2年生の夏に、ある方からMessengerで誕生日祝いのメッセージがあり、これが僕の中で大きな転機となりました。その方はNPO法人ロシナンテスの代表川原さんという方で、大学に入りFacebookを始めたタイミングでなんとなしに友達申請を出していました。高校2年生の時に川原さんのドキュメンタリーをテレビで見て、アフリカで巡回診療をされている姿に感動したことがあり、知り合いになれたらいいな、という本当に軽い気持ちで友達申請を出していました。1年くらい全く音沙汰がなかったのですが、僕の誕生日に突然申請許可&誕生日祝いのメッセージがきたんです!後で分かったのですが、この時川原さんは資金集めのためにあらゆる人に声をかけていたらしいです(笑)
こうして川原さんとつながることができて、自分も川原さんの活動に興味があり同行したいと直談判をして、活動されているスーダンに2年生の夏に行くことになりました。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

スーダンでの生活はとても衝撃的でした。川原さんはスーダンの僻地の人たちに巡回診察をやっており、それが村のインフラと化していました。また、医療活動だけでなく、それに関する教育、指導なども行っており、泥臭い積み重ねや努力の結果、日本人1人が村のインフラを支えている姿を見て、自分もこうなりたいと具体的なロールモデルを見つけることができました。また、医療行為以外でも、医療に携わって人のためにできることがある、学生にもできることがある、と知れたことはとても大きな収穫でした。

ロールモデルが見つかり、やるべきことはわかった。いつまでも夢のままで終わらせるのではなく、具体的に行動して夢見る生活をやめよう。そう思い、帰国してから自分も行動することを決意しました。

自分は国際医学生連盟という、国際交流を主な活動とした学生団体に所属していました。活動の中でお世話になっていた無医村に診療所を建てる活動をしていたNGOがザンビアにあったのですが、そのNGOが引き上げるから国際医学生連盟がよかったらその活動を引き継いでくれというお願いがありました。このチャンスに乗って、診療所を建てることを目標にザンビアへ行きました。

一番の課題となったのはやはり資金集めです。金額は最初1000万円必要だという話でした。しかし、前のNGOがほとんど話を進めており、大使館などから援助をいただけるということで、残りは100万円ほど集めればいいと状態だったので、僕は当初楽観的な気持ちでいました。しかし、いざ蓋を開けてみると、実際には全く話は進んでおらず、どんどん必要金額も引き上げられていき、結局700万円くらい必要だということがわかりました。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

どうやってお金を集めて行こうか考えた時、寄付などで集めるのではなく、ザンビアの良いところを用いながらビジネスでお金を稼ごうという方向に決め、日本でザンビア風お好み焼きを販売することになりました。

2年で300万円ほど貯めることができ、順調に進んでいました。一方で日本でお金を用意することばかりに力を入れてしまい、現地とのコミュニケーションを蔑ろにしてしまっていました。結果、建設予定地が途中で変更になってしまうなど、現地での建築が思うようにうまく進みませんでした。これによって10万円ほど無駄にしてしまうこともありました。(僕らにとってこの10万円は大金なんです!)

ある日ご縁があって、ロータリークラブという経営者のコミュニティの代表と話す機会がありました。僕らがやっている活動をお話しすると、興味を持ってくれた一方でお金を稼ぐことが今の目的になっているんじゃないか、と指摘されました。自分たちの目的が変わりつつあることを気づかせていただき、かつ残りの金額の寄付をいただくことができました。

ーーこうして必要なお金が集まったんですね。その後はどうされたのですか。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

2019年に休学して現地ザンビアへ行きました。なんとか形にすることができ、現地の人件費や薬代はザンビア政府に出してもらうことにもなり、もうそろそろ運営を開始する予定です。また、日本に帰国後も現地とは遠隔でやりとりをとっています。村の人は高等教育を受けている人が少ないこともあり、長期的な視点で物事を考える人が少なく、また役所など上の人の意見を盲目的に受け入れてしまっている現状があるため、必要な助言や教育などを行っています。

さらにロータリークラブの協力で、ザンビアのこの村に奨学金を立ち上げて、高等教育を受けられる人を増やそうという活動も行っています。

ーー大学生活を振り返ってみて、やっておけばよかったこと、やっておいてよかったことはありますか。

やってよかったことは大胆にスーダンに飛び込めたことです。もちろん言語の不安などはありましたが、思い切って行けてよかったです。行くための準備はしっかりしたという自負と、迷ったらやってみようという性格からやることができました。また、自分のやっていることを、自信がなくても発信するということもやってよかったです。言語化することやいろんな人から質問されることで、よりアイデアなどが磨かれていったからです。

やっておけばよかったこととしては、もっと早くスーダンに行ったり、いろいろ経験したりすればよかったかなとは思いますが、そこまでの後悔はないです。やりたいことを常にやってきたからだと思います。

ーー読者に何かアドバイスはありますか。

いろんなことに挑戦することです。一方で 諦めも肝心ということを伝えたいです。自分に合わないと思ったらすぐ辞めて新しいことに挑戦することが大事だと思います。何かを止めることは勇気がいることですが、自分が今ワクワクすることに対して責任を持って意思決定をすることで、頑張る動機や環境が生まれ、自分の夢に近づくことができると思います。

先生や親に言われたことをやるのではなく、自分の意思で自分に責任を持っていろいろ挑戦するのがいいのではないでしょうか。

ーー進路はどうされますか。

音楽サークルのライブでギターを弾くスミスさん。観客のいるライブに出演するほどの腕前だそう。

 

大学を卒業し研修を終えて、2年ほど日本で医師として働いてからはまたザンビアに戻ろうと思います。ザンビアでの活動はとても楽しく、インフラをゼロから作っていく感じがすごいやりがいがありました。

将来的にはザンビアの医療インフラを日本並みにしたいです!ザンビアでは現在胃カメラですら2ヶ月待ちで、日本では助かる人がザンビアでは助からないというのが現状です。やらなければいけないことは山積みですが、ハードルが低いところから少しずつ改善していきたいです。医療を通じて人に貢献できれば何より嬉しいです。

ーー最後に、宮地さんにとって「大学」とは?

僕にとって大学は、使い倒すものであり、リソースの宝庫だと思っています。大学生というだけで社会的信頼や、大学では文献や人脈などのリソースが得られます。個人でやっていてもできない、相手にされないことが、大学生がやっているといえば信頼されることがあると思います。

オンラインでインタビューを受けていただきました!

この記事を読んで、みなさんはどう感じましたか。

宮地さんは3.11があった時から医師を目指し、大学では川原さんから連絡があったというチャンスを逃さず、果敢に行動に移すことができました。また、大学生であるという社会的信頼があったことや、国際学生連盟というリソースを使うことで今につながっています。