スポンサーリンク
ーーーー離婚、引越し、ホームレス。多くの困難があった村山さんは、現在医学部で…ーーーー

ゲストプロフィール
村山安寿(ムラヤマアンジュ)
北海道帯広市出身。幼少の頃親の離婚がきっかけで、母について行き東京の町田へ引っ越す。小学校6年の時には、沖縄に引っ越すものの仕事、家がなかなか見つからなかったこともあり、1ヶ月半車中泊で過ごす。親に負担をかけないため、寮がある函館ラサールに中学校で入学。高校は東京の日比谷高校に行き、高校の時参加した国際保健のフォーラムに参加したことがきっかけで、医者に興味を持ち東北大学医学部に進学する。大学では製薬マネーについての研究を進める。
ーー高校時代までを教えてください。

北海道の帯広で生まれました。一人っ子です。2歳までは北海道にいたのですが、両親が離婚して母について行ったことがきっかけで東京の町田に引っ越しました。母譲りの我を曲げない性格で、小さい頃は周りから浮くことが多々ありましたね。習い事は空手、水泳、テニスといくつかやっていましたがどれもあまり長続きはしませんでした。
母は自営業で、デパートなどで小売の仕事をしていました。僕もこれをよく手伝っており、全国津々浦々に行っていたため、小学校の頃はよく学校を休んでいました。勉強は好きなものはやっていましたが、つまらないものは全くやりませんでした。小学校で勉強しなくても大した問題じゃないと思っており、親もそれは自己責任だということで放任されていましたね。母の仕事の関係で日本中に行けて多くの経験ができたので、その点ではとても良く、自分でも楽しみながら手伝いをやっていました。しかし、東日本大地震によって主なマーケットだった東北地方での仕事がなくなり、生計が立たなくなってしまいました。
すると母は、何を思い立ったのか沖縄に行こう!と言い出しました(笑)行けば何かあるだろうという楽観的な気持ちで、車一つで沖縄に行きました。しかし、もちろんいきなり行ってみても仕事はすぐには見つからず、当時は東京から越してきたというだけで「福島の放射能を持って来ないでくれ」と現地の人から言われたり、差別を受けたりということがあって、1ヶ月半ほどは家も見つからず、学校にも行くことができずに車中生活を送っていました。この時期は梅雨で、車に雨が入ってくることもあり、とても辛かったですね。
ようやく家も見つかり、6月くらいから学校には行き始めることができるようになりましたが、授業を受けているとカルチャーショックを受けることがしばしばありました。東京と比べて授業の進捗が圧倒的に遅かったことや、歴史の授業で突然琉球史が始まったこと、また、島民の中には沖縄は日本人によって侵略されたと思っている方もおり、東京との違いにショックを受けました。僕の中で決定的に沖縄とは合わないなと思ったきっかけは、ある島民の方が、太平洋戦争で死んだ沖縄の人の数に比べれば、「東日本大地震で亡くなった人の数はたかがしれている」と聞いた時でした。人の命を数で比べたことと、その大小を「たかが」という言葉は述べられたことは今でも忘れられません。この時に僕は中学受験をして、沖縄を出て別のところに行こうと決意します。寮のある学校に行き、母の負担を減らしたいという思いもありました。
学校は函館ラサールを目指すことにしました。自分の生まれ故郷である北海道に、親近感を感じたからです。しかし、これを決めたのは小6の12月。受験まで残り数ヶ月しかありません。学校に行かない時期すらあったため、どうしようかと悩んでいたら、東京で料理店を営んでいた祖母の知り合いで偶然東工大で教員をしている方がいて、その人が家庭教師として1ヶ月半みっちり勉強を教えてくれることになりました。結果、補欠でしたが無事合格することができました。
中学に入ると最初は学年で下から10番くらいの成績でした。これが悔しかったことに加えて、今まであまり勉強していなかった分、勉強の楽しさをこの時に気づくことができて、ずっと勉強をしていました。結果最終的には学年2位までとることができました。
また、勉強の他には部活にも力を入れました。勧誘を受けたことでラグビー部に入り、もともと強豪だったこともあって、全国大会のレベルまで行くことができました。
正直この頃は文武両道を達成することができ、天狗になっていたところがあります。その結果、いじめに加担してしまったことがありました。当然そのいじめは明るみに出て、厳しく怒られました。学校にもいづらくなり、高校にはエスカレーターで上がれるのですが、学費だけでなく高校の寮費などもあり奨学金だけでは生活できないので、公立の高校を受験することにしました。この頃には沖縄にいた母も東京に戻ってきていたため、東京の日比谷高校に入ることにしました。
ーー高校時代はどのようでしたか。

高校の文化祭実行委員の写真です
成績は320人中7,80番目くらいでした。あまり勉強には力を入れず、2つ上のラグビー部の先輩を尊敬していたため、部活動に力を入れていました。また、文化祭の実行委員をやったり、学校の留学プログラムを利用してハワイに行ったりと、高校1年生は充実した期間を過ごしていましたが、2年生になり、ラグビー部の尊敬していた先輩方が卒業されていくと、ラグビー部の部としての方針や雰囲気が少し変わってしまい、そこに違和感を覚えるようになっていきました。
そんな中、母が心臓病で倒れてしまいました。命に別状はありませんでしたが仕事ができなくなり、家事や弁当作りは自分でやるようになりました。また、大学は奨学金で行けますが、浪人は金銭的に絶対にできないという状況になりました。大学に落ちたら就職するしかないと考えていました。なので部活動はこの時期にやめて、勉強一本でここからは頑張っていきました。
小さい頃から将来の夢は、貧困の人の代弁者になりたいということでした。僕は恵まれていました。世界中には自分の力ではどうにもできないことが原因で、自分なんかよりもずっと恵まれていない人々がいます。小学生の頃には総理大臣になりたいと思ったり、中学生の時には「国をつくるという仕事」という本を読み、国際協力に興味が湧くこともありました。その様な中、たまたま国際保健のフォーラムに参加する機会がありました。そこで、国際保健や公衆衛生という分野に出会います。これがきっかけで、将来はWHOなどで働くのがいいかもしれないと思い始め、医学部を志す様になりました。小さい頃は、どちらかといえば医者といえばお金持ちで少し憎いくらいの対象でしたが、人生どうなるかわからないものです(笑)

スポンサーリンク
そうして医者を志す様になってからしばらくして、たまたま紹介で福島を中心に医療活動をされていた上昌広先生という方と出会います。先生に自分は国際保健をやりたいということを言うと、何を馬鹿なことを言っているんだと一蹴されてしまいました(笑)そこでは自分がやりたい研究など思う様にできない。一人で生きていく力を身につける事が大事、だとアドバイスをもらいました。当時はあまり言っている事が理解できず、響かなかったですが(笑)、折角だったら震災の現場を見てきたらいいと言われ、生まれて初めて福島の南相馬に行きました。そこで見た惨状はすごいもので、いまだ深く残る津波の爪痕や瓦礫の残骸、至る所に設置された放射線計、地元の方から聞いた当時の話など、どれもとてもショッキングな出来事でした。しかし、これがきっかけで国際保健ではなく、福島などの被災地で働くのもいいな、と思い始める様になりました。

この様な出来事があり、どの大学に行こうか考えた時、まずは公衆衛生が学べる学校というのを軸に探し始め、東北に関心があったため、仙台にある東北大学に進学することを決めました。
ーー大学以降はどのような活動をされていましたか。

香港に旅行に行った時の写真です。ちょうど香港デモがあるタイミングだったそうです。
ラグビー部に打ち込んだり、やってみたかった海外旅行をしたりしました。1ヶ月フィリピンで紛争孤児ボランティアや、大学の語学プログラム、東南アジアにバックパッカーとして行ったりしました。
2年生の春すぎにはちょっとした事件がありました。僕は奨学金を申し込むために、担当の教授から推薦状をもらうためにメールをしたのですが、それを巡って教授から僕が失礼だと強めに怒られ、「医者としての素質がない、将来東北で医者はやれないぞ」と軽く脅しまがいの文句を言われました。その数日後、高校の時からお世話になっていた上先生に、飲み会の席でこの一連の出来事を話したところ、SNSで発信してみることを勧められました。言われた通り発信してみたところなんと2000人以上の方にリツイートされ、多くの人に広まることになりました。しかし、そのツイートが大学に知られ、呼び出され怒られてしまいます。ここでも自分がそんなに怒られてしまうのはおかしいと思っていたので、その内容を録音し東北大のパワハラ委員会に告発したことで、一応この事件は収束しました。
ここまでの流れを、上先生のシンポジウムで発表する機会がありました。この様な出来事があったこともあり、上先生とはより深く付き合わせてもらうようになりました。それからは上先生の弟子で、福島で医師をされている尾崎章彦先生にご指導いただいて研究活動をさせていただくようになりました。今の主な研究テーマは製薬マネーについてです。
製薬マネー…製薬企業や医療機器メーカーが医療者に対して行う金銭授与のこと。無料のお弁当から、新薬を承認する政府の医師や治療法を決めるガイドラインを作成する医師に対する数百万もの謝礼金や数千万の寄附金など多岐にわたる。
▼製薬マネーに関して詳しくは下のURLからどうぞ!▼https://facta.co.jp/article/201912027.html
製薬マネーは、医療に携わる人なら誰でも絶対に知ってる話で、アメリカを中心に欧米諸国では非常に大きなトピックです。しかし、日本ではほとんど取り上げられず、それを研究している人も数人しかいません。日本では、製薬マネーに関わることは業界を敵に回す行為であり、干されてしまう可能性があるため、誰もやりたがりません。長年タブー視されてきた分野です。
しかし、海外の研究によると製薬企業がたった1000円程度の昼飯を奢るだけで医師は約2.2倍多くその会社の薬を処方したり、3倍近くその会社にとって都合の良い研究結果を報告したりすることがわかっています。このお弁当代は最終的には患者が払うだけでなく、無意味で高額な薬は患者にとって百害あって一利なしです。僕としては、かねてより人の役に立つことをしたいと思っていたため、患者第一の研究をして、今後も患者さんのためになる研究をしたいと考えています。
以前も、日本の医療業界における問題の指摘を、国際的な科学雑誌『Nature』に投稿し、掲載されるという段階まで来ていたのですが、掲載直前になって内容的に企業訴訟になるかもしれない、ということで結局掲載には至りませんでした。残念です、、(笑)
ーー大学生活を振り返ってみて、やっておけばよかったこと、やっておいてよかったことはありますか。

旅行に行ったアイルランドのダブリンでの写真です。
やってよかったことは、やるかやらないかで悩んだ時には必ずやるようにしたことです。この考えは、中学の部活の先輩が何事も真剣に取り組んでいる様子を見たり、幼い時に貧しかった経験から形成されました。世の中には自分にはどうしようもないことがいっぱいあるから、せめて自分の努力でどうにかできることは頑張ってどうにかしたい。めんどくさいと思うことも、後々後悔したくはないので出来る限りやるようにしてます。なので、やっておけばよかったことはありません。
ーー進路はどうされますか。
今の研究をいつまで続けるかは決めていませんが、自分の活動を一人でも多くの患者さんたちに還元できたらと思っています。将来はまだ漠然としていますが、困っている人、一人ではどうにもできない困難を持った人のお役に立てたら嬉しいです。
ーー最後に、村山さんにとって「大学」とは?
僕にとって大学とは、自分で選択する場所です。小中高までは、あまり選択の機会もなく何も考えることなく過ごすことが、良くも悪くもできた期間ですが、大学ではどの部活・サークルに入るかだけでなく、授業に出るか出ないか、から選択することができます。人生で初めての、自分で何かを選択する場所が大学なのではないでしょうか。
勉強だけであったら大学に行く必要はないと僕は考えています。今ではオンラインで学ぶこともできるし、知識を得るための場所、という側面は薄れてきている様に感じます。

オンラインでインタビューを受けていただきました!
この記事を読んで皆さんはどう感じましたか。
小さい頃から多くの苦労があり、その経験が元で今度は自分が人のために何かしたいという思いから、医者になるという選択をしました。現在はお世話になっている先生のもとで、自身の利益のためでなく、本当に患者さんのためになるために研究をされていると言います。
コメントする